優しかった気持ち

人がつくったものが好きです。AKB48劇場公演。

ミュージカル「ひめゆり」【20170715 12:30〜/18:00〜】

あまりにもショッキングな舞台だったので、何をどう書いたらいいのかまだわからないのですが、感想を書きます。
2回観てよかったです。昼の月組公演はAKB2期生のかおりん(現・早乃香織さん)も出演していると知って急遽買い増ししたのでした。重たい演目なので1日に2公演観て大丈夫かなとも思ったんだけど、結果そっちのほうがよかった。
昼はただただショッキングなシーンの連続に耐えている感じだったけど、舞台の流れがわかった夜は舞台としてきちんと観られました。それでも耳を塞ぐ手はなかなか離せませんでした。先に一言で述べておくと「ひめゆり」は北千住マルイの11階で上演されている戦争です。実際の戦争はこんなに美しくないはずだけど、それくらいのインパクトがあります。
※以下いわゆるネタばれを含みます。

はいだしょうこ キミ(ひめゆり学徒)
木村花代 上原婦長(南風原陸軍病院看護婦長)
中井智彦 檜山上等兵(日本軍兵士)
小野田龍之介 滝軍曹(日本軍軍曹)
河西智美 ふみ(ひめゆり学徒)

月組(7/15昼)
守屋由貴、湖山夏帆早乃香織、柊みさと、中村萌子、豊田麻理奈、輝海健太、平山 透、長谷川大祐、藤澤知佳、上願由佳、村上恵子、池永美穂、村上恵美、八田知夏、廣岡真帆、藤田沙知、こんたみのり、藤村奈央、尾谷響香、下川弓絵、黄金井美帆、光岡あかり、野口はるか、紺野悟子、大村美樹、泰原いずみ、中山佳与、吉野めぐみ、松浦江里、八重幡典子、佐々木希衣、佃 華枝、有田恵理、松田直樹、西村匠平、横田剛基、鈴木遼太、柴野 瞭、加藤拓也、肥沼勇人、山川大智、佐々木恭祐、田中隆雅

星組(7/15夜)
井坂 茜、苅谷和暉子、内田莉紗、小島優花、荒居清香、山崎朱菜、横田剛基、西村匠平、長谷川大祐、堀 祐子、太田有美、笹石けい、古賀なつき、菅田紗子、梶礼美菜、飯塚萌木、曽我部英理、青木みくり、柘植美咲、刀根友香、平田里美、小笠原桜子、小栗万優子、小林 都、滝口恵梨果、中野史緒江、北澤小枝子、掛橋七海、廣瀬知恵、成重美咲、富吉まこ、境田美由紀、松澤梨奈、鈴木 萌、松田直樹、平山 透、輝海健太、鈴木遼太、柴野 瞭、加藤拓也、肥沼勇人、山川大智、佐々木恭祐、田中隆雅

こわい理由

舞台のテーマは太平洋戦争のひめゆり学徒隊。物語のあらすじは…歴史のとおりです。
暴力の連続。普通のお芝居だったら山場にくるようなトラジディが、次から次へと続きます。もういいでしょ?ってくらいクライマックス的ショックが続く。幕間の休憩20分が信じられないほど休憩できないんです。悲劇が終わるのを見届けたいがために、終わらない悲劇の続きを観たくなるんです。観たくないシーンほど瞬きも忘れて凝視してしまって、おおらかな歌声が響くのどかなシーンほど観ていられない。だから、もうへとへと。一息ついて瞬きをしたら目がだいぶ乾いていたみたいで、感情と関係のない涙がぼろぼろ出てきました。

疲れきってしまうけど決して悪い舞台ではありません。何度も再演されているだけあり、むしろ傑作です。この「ひめゆり」というタイトルで沖縄の悲劇を舞台にするなら徹底的にこうするしかない、という事実が残酷です。
戦争ものの作品なら観たことはもちろんあった。学校で見たビデオとか、テレビドラマとか映画とか。でも数メートル先のステージで、出演者が人間という生きた肉体で、声で、魂でぶつかってくる舞台は想像を絶するほどの熱量で、こわい。ステージ奥のスクリーンに飛行機や爆撃の映像が(実際の記録かな?)投影される場面もあったけど、モノクロなせいもありそっちのほうが全然こわくない。キャストの人数は舞台にしたら多い方だと思うし、大勢でステージに乗っているシーンがほとんどだったから(実際、客席には演劇関係者と思われる雰囲気の方々が多く見受けられ、この劇の登竜門的な性格が垣間見えました)。戦争が始まる前の学校の集会のシーンではひめゆり学徒だけで20名ほど、さらに教員合わせて30名近くがステージに乗っている。この大勢がのたうちまわる病棟のシーン、逃げまどうシーン……歴史を語りかけるために用意された人数のスケールが違います。そしてこの人達のひとりひとりの熱量がおかしい。人数と熱量がかけあわさってものすごいインパクトを生み出していました。それが「こわい」。舞台の世界に飲み込まれてしまいそうでこわい。もしも昨日の席が通路側の席だったら私は間違いなく途中で抜け出していたと思います。

どうしてそんなに怖かったのか、夜公演でやっと向き合うことが出来ました。「音」が半端なく大きいんです。爆撃音、非難警告、サイレン、エンジン音、ショックを伝える音響効果がとにかくこわい。観客だけでなく、スタッフや演者たちも怖いはず。むしろその音響というシステムを使って1945年の緊張した空気を作り出しているようだったし、この容赦ない音が演者たちのテンションをさらに演出していたようにも思えるほど、とにかく音が大きいんです。
これまで劇場で大きなステレオから流れる音はいくつも聞いてきたけど、爆撃やサイレン、危機感を知らせるヴァイオリンや低音の高まり、のどかな歌唱の終わりのメロディの不穏な歪みがこんなにも"こわい音"として聞こえるのかというくらい。こわいから大きく聞こえるのか、音が大きいからこわく聞こえるのか。
私がそもそも大きい音が苦手すぎる人なのでだいぶ堪えました。いつまた爆撃が、悲痛な場面がくるのかこわくてこわくて、耳を塞ぐための指を耳元から離すことはほぼできませんでした。

そして病棟のシーン。特に手術のシーンは2度目の観劇ではステージをまったく観ることができなかった(昼公演はここで見事にもぬけの殻になりました)。シンプルなステージに対して真っ赤なライトと音楽がそれに拍車をかけてこわかったんだと気づきました。医師と婦長にとっては慣れた光景かもしれないけど、この舞台はあくまでもひめゆり学徒たちの目線だから、慣れない少女たちがただ戦争が始まっての人員不足によって投下される環境にしては過酷も度を越していたと思います。そしてその事実も含めて、現地の医療設備がとても十分だったとはいえないことが伝わってきます。そりゃウジ虫もわくよ…。前半が終わって休憩に入った時点で、夜公演のチケットをこの後どうしようかと具体的に考えたくらいです。あんな環境が日常の隣にあるなんて今2017年の日本ではとても考えられないけど、報道される紛争やテロの耐えない地域のことを思うと、やるせない気持ちになるしかありませんでした。こんなに、いや、これ以上の恐怖なんて信じられないです。

心理

ひめゆりには、他のドラマや映画で見たものでは垣間見えなかった戦争の悲惨な日常が描かれていました。心理的な描写が精緻だからこそ、戦争の本当の恐怖が伝わってきます。
戦場で現実を見てきた兵士たちには負けると末がわかっていながら、終わらない戦争。でもそれを目の当たりにしていない人達は、あるいはプライドのある幹部たちは愛国心で乗り切ろうと絵空事を言って鼓舞してストレスで自分の首を絞めていく。
戦いが激化してくると逃げまどう中で自決する人たち。「死にましょう」と先生に迫る生徒たち。「君たちはまだ若い、人生の豊かさを知ってほしい、今はそれしか言えない」と、教育として人を殺すことを教え込んできた自らをとがめる教師の姿。
各地で戦い抜いてきた兵士は「自分はもう人間じゃない」「戦争を見た後で生きているなんて」と、戦火で脚を折ったことを「(人を殺してきた)バツだ」と戒めている。愛する人には生きてほしい、でも自分は早く死んで楽になりたい。生きたいと逃げ惑いながら死ぬ方法を考えている。
ストレスの連鎖でどんどん狂っていく。命令を下す幹部すらそうなってしまってもはや独裁状態。故郷を想う歌を歌っていたはずの軍人は、焦りから母子まで犯してしまう。
人々の気持ちの因果がはっきりと見えてくるほど緻密で、そのような描き方は非常に現代的だなと感じました。「生きていくのが怖いから死にたくなる」という歌詞がありました。生きるのが怖いというのは今の私たちも実感することだけど、レベルが違う。心豊かに"生きる"ことだけじゃない、そもそもの生命存続の危機。こんな生き地獄が本当に70年前の日本で本当に起こっていたなんて考えると、本当に本当に恐ろしいです。二度と起こしたくない、起こしてはいけないことだと認識しました。

河西さん

記事を終えるにあたって、社会的な感想ではなくこのブログに似つかわしい話題で終えたいので、ここでこのステージに立たれた河西さんのことを書きたいと思います。

学校での集会が終わると、みんなは残るかどうするかと雑談を始めます。河西さん演じるふみは、誰よりも先に「私は帰りたい」と言います。妹のルリは体が弱いから二人で家に帰りたいと。でもそれを阻むのは同級生が放った「非国民と指差されながら生きていくことができるのか?」という厳しい言葉。とてもこわいけど逃げ出すわけにいかないと怯えて困惑した表情をふりきって、笑顔を見せるふみ。これが終わったら病棟に赴任することがわかっていた卒業式で、涙が止まらなくなるふみ。この子はどうなるんだろうと見守っていたけど、妹ルリがいるから強くなるんです。防災頭巾を被せてあげて、庇ってあげて、さとうきびをとってきて与えたり、熱が出て歩けなくなればぎこちない足取りでおんぶしてあげる。
兵士への看護の使命を強くしていた主人公のキミもそうですが、愛情があの戦地で何よりの原動力になっていたんだというのが伝わりました。それは、この舞台で唯一といい気高く清らかで聡明な存在である婦長もそうでした。涙を隠して尽くせと鼓舞する一方で、被弾したちよが息を引き取る時には何もできない無力さに暗がりで泣いています。つらい時こそ甘い夢を見るのよと学徒たちを励まし、パラノイアで冷静な判断ができなくなってめちゃくちゃする軍曹を最後の力をふりしぼって射殺します。自分を見失わずに生きることという意味で、強い女性たちが多く描かれていました。ふみもその一人です。
かおりん演じるみさは3枚目のトリオでしたが、歌のパートはすぐわかる独特の明るい声でした(紺野の歌声に似ていて好きだったんだよな…)。ダンスものびやかでしなやかで、綺麗になったな…と並みの感想ですが懐かしかったです。

お国のためにと高らかなキミと、不安な気持ちのふみのデュエット。妹との掛け合いは、大丈夫だよと確認するみたいに何度か出てきました。全体で歌う時も地獄の底から響いては溶けていきそうな合唱に河西さんの歌声が飛んでいく。上記したようなことがあって私はなかなか平生を保ってこれらの歌を楽しむことができなかったけれど、河西さんの透きとおった歌が聞こえてくると、あ、このシーンは大丈夫そうだと耳をそばだてる勇気を持てました。力強くて優しいんです。戦争が終わって家についてお母さんを呼び、姿を見つけて叫ぶ姿、気張りがとけて膝から崩れるふみに、これまでの生き地獄がようやく報われた心地でした。
舞台が終わったカーテンコール、明るいステージに出演者が並びます。河西さんはちょっとチユウっとした笑顔で、細めた眼は潤んでいて、拍手を浴びると顔をゆがめて泣くんです。昼公演も、夜公演もそうでした。ふと横をみると婦長もそうでした。きっと初日から千秋楽まで毎公演こうやって、命を削って立っているんだなと思いました。
どうしてこんなつらい舞台を受けたんだろうと正直思いました。毎日毎日泣きながらステージに立って、いくら虚構の世界だからといって繊細な河西さんがバテちゃうんじゃないかと思いました。河西さんだけじゃなくて他のキャストも。でも逆に考えた、もしこのひめゆりをまったく無名の劇団がやったらどうだろう?生半可には当たれない重大なテーマなのに表現のスケールは及ばないし、見に来てくれる人が限られてきてしまうんじゃないか。影響力を持った実力者が舞台に立つことに意味がある演目なのかもしれない。河西さんは、しょうこお姉さんは、他のキャストさんはみんな、だからひめゆりの仕事を受けたのかもしれないとそう思いました。河西さんが身を削ってステージに立っている。あれは戦争の再現、でも舞台だ。きちんと向き合おう。昼公演の後ファミレスでポカンとしながらそんなことを思い、夜のチケットを握りしめて戦場へ戻ったのでした。

忘れないためにこの舞台が続きますように

連休明けの18日が千秋楽です。それまでこの戦争という舞台、舞台という戦争がくり返し上演されます。一緒に"戦ってくれる"人は観てほしいって思う舞台でした。
ソースをたどることができなかったので記憶での記述になってしまいますが、いつだかの3月11日のAKB48劇場特別公演で(確か優子だったと思う)「東日本大震災を忘れるなと言われるけど、悲しい記憶を振り返りながら生きていくことはできない。3月11日になったら私たちがこの出来事を忘れないように思い出させるから、それが私たちの仕事だから、皆さんは前を向いて生きていってください」という趣旨の話をしていたと思います。
この「ひめゆり」という舞台も、戦争の、戦場になる悲劇を忘れないように編まれたはずです。歴史は消えないから「忘れるな」という精神が消えることもないはずだけど、決して安寧ではない現在、なにか大きな選択を迫られたときに思い出したい作品です。そして、「ひめゆり」の物語をミュージカルという当時の敵国アメリカで花開いた文化でもって表現することは、ある意味の"平和"と捉えていいのかな。この舞台が上演され続けること自体が、"平和"なのかもしれませんね。