優しかった気持ち

人がつくったものが好きです。AKB48劇場公演。

紺ヲタには紺ヲタの、さゆヲタにはさゆヲタの、紺野には紺野の、道重には道重の、「涙とま」がある。 *1


頭んなか混沌としてきたから整理する。

正しいものはありません。

紺野が歌おうが、さゆが歌おうが、涙とまは涙とまでしかない。


紺野が歌わなきゃ涙とまじゃない。
紺野以外が涙とまを歌うな、というのは
紺ヲタとして気持ちは非常に伝わってくるが、主観的すぎる。
さゆヲタの気持ちは、さゆみの気持ちはどこにいくんだ。


道重が歌おうとしているのは、道重さゆみの「涙とま」だ。
紺野の「涙とま」は歌えない。誰にも決して。
それでいいじゃないか。


転変を恐れていたら、何も変わらない。そういうこと。
そりゃ文句だって出る。
でもさゆは賢い子だから、決して忘れないと思う。
紺野が大切にしたピンクキャラ(3代目)も、
紺野と切っては語れない「涙とま」も。


今、道重にかかってる重荷というのはでかいと思う。
そこに紺ヲタの厳しい目があるから。


「好きな先輩」を6期が歌ったときの、5期ヲタの反発と一緒。
秩序から理屈から全部一緒。
好きな先輩は、あれは5期のために作られた曲だとおもうからそりゃ嫌だと思った。


けどなぜか「涙とま」でそれを思わないのは、
きっと紺野あさ美のソロ曲ではないから。
バックで踊ってるメンバーが殆どにしても、モーニング娘。の曲だから。
つんくが「紺野メインで作った」曲だといっても、それを歌っているのは”モーニング娘。”である。
CDひっぱり出して確認してください。そう書いてあるから。


さゆが、娘。で一番好きな曲で「涙とま」と答えているのは雑誌で読んだ。
きっと他のところでもそう公言しているとおもう。
しかしそういう場で紺野はDINと答えていたし、
どちらかというと、
紺野=「涙とま」を大切に大切にしているのは、
メインの紺野ではなく、外野の紺ヲタのほうなんだろう。


けど決して紺野だって、この曲を粗末に扱うわけがない。
大切な曲になんら変わりはないから。
きっとさゆが歌うことになって、というか自分がいないモーニング娘。が歌うって知ったときはそりゃ複雑な心境だっただろう。
自分のためにつんくさんが作ってくれた曲を、自分なしで歌われることには。
けど、大切にしてるんだ。みんな。
吉澤だって、高橋だって、新垣だって、亀井だって。道重だって。
この曲を聴いて、歌って、紺野あさ美を思い出さない人間はいない。
あのイントロを聞けば、脳裏にはふっと紺野が出てくる。
それくらい、=紺野のイメージが強い曲。
歌ってる娘。だって無能じゃない。
きっと今まで以上に、この曲を重んじ、丁寧に扱っているはずだ。
紺野は知ってるよ。そのメンバーの、仲間の精神は。
だから、どんなに複雑な気持ちを抱いたとしても、きっと最後にはちゃんとステージに目を向けることができるだろうよ。
知らないのは外野だけ。何も感じてない。




正直な旨をいう。
「涙とま」は、楽曲として好きじゃない。
歌詞内容としてもそう。
娘。の曲なのに、紺野紺野と言われるのが嫌だった。


だから今回のツアーで、メンバーが復興してくれているのは、
紺ヲタとしての複雑な気持ちではなく、
モーヲタとして素直な気持ちで聞けるような気がする(DVDで。)
どんなに追い風を受けていてでも、しっかり継承して大切にしてほしい曲。


この曲が歌われ続けるかぎり、モーニング娘。紺野あさ美という娘。がいた事実は、決して廃れない。
むしろそこを誇りに思うべき。





こんなんだったら、「涙が止まらない放課後」なんて曲、できなければよかった。

こんな論争になるんであれば、紺野なんかセンターを務めなければよかったし、モーニング娘。なんかとっとと解散してしまえばいい。








おいらはこう思っています。これからもこの意思は変わるつもりありません。

理解されるつもりはありません。理解は、もっとも他人に求めてはいけないものだから。

ただ、こういう人間がいることを、知ってほしいだけです。



優気は、モーニング娘。が大好きですから。