【トリック・アートの世界】損保ジャパン東郷青児美術館

 内容としては国内のアーティストで固めた現代のトリック・アート。クラシカルな絵画作品を多くもってきていたBunkamuraとは対照的な印象。
 去年の夏にBunkamuraでだまし絵展をやった時と同じような客層で萎えた。閉館間際の夕刻にも関わらず。損保には久々に足を運んだけど、コクーン・タワーのモード学園が開校していたからか学生も多かった。マナーのなってない美大生気取りの学生が。本当にうるさかった。親子連れというよりもうるささでいったら学生たちのほうがよっぽど酷かった。友達と一緒にああいう場にいくのは良いのだが、一緒にいる時のテンションまで通常通りだと迷惑だ。静かにしろよ!学部の友達はみんな単独行動できる人ばかりだったから逆に展覧会に友達と一緒に行くっていうことのほうが珍しかったんだけど。美術館にまでその盛り上げたテンションで来るなやと思う。

三尾公三《シーレの部屋》

 「シーレ《友情》が入ってる作品がきていたよ」とゼミの聴講に来ているOBが教えてくださった。嘘だとは思わなかったけどなんとなく信じ切れずにいた。けど本当に、自分の最大の研究対象作品である1913年作の《友情》が画中画として描かれた。それが三尾公三の《シーレの部屋》という作品。全然知らなかった。制昨年の1989年からしてシーレの展覧会で本作に触発されたかなと思う。
 画中画の《友情》は原作とは違うようにアレンジされていた。肩にかかる布(と思われるもの)は、原作ではストッキングの深い緑と呼応した黄緑なんだが、ここでは赤にされていた。人物の肉体を彩る色も赤が強め。ちなみにストッキングの黄緑は変化なし。窓枠のような薄緑の影が差していて、何か分厚いものに印刷されているのか枠のようにはめられているのか、コの字型の金具で四方を壁に固定されているようだった。
 ちょうどソファーが設置されたスペースだったので腰を下ろしてじっくり見たのだが、キャプションや出品リストの説明書きを読んで、「あれは2人とも女なのか」という論議の末に嘲笑するグループばかり。なぜレスビアンの絵を描き込んだかなんか疑念も示さず、考えず、過ぎて隣の作品に移っていく人ばかり。作品の意味は知ろうとせず、ワークショップの答えを知りたがるばかり。これが現実。あまりに心ない反応の露呈の連続に耐えきれなくなりその場を離れた。閉館寸前、追い出しBGMがかかる頃には人が引いていてようやく落ち着いて観ることができた。
 目に見えないものを目に見えるようにする芸術。それを知らない人間が多すぎる。日本の"美術"教育なんて、結局アカデミックに目に美しいものを擦り込んでいるんだし。artの訳語は「美術」だが、美しいとは限らない。少なくとも、その美しさは直接視覚で捉えられるものではない。スーパーレアリスムや、それこそ“トロンプ・ルイユ”は目に見えるように“リアル”に対象物を描き出すが、その“リアル”がアンリアルの中に表現されているからこそ、特別であり、強いメッセージを持つ。
 美術が、アートが、研究者や鑑賞を趣味とする人々だけの物であってはいけない。だけど、観ようとする姿勢を間違えると、知ってもいないことを知った気になる。「観たことある」という経験が「作品(の意味)を知っている」ことにはならない。美術は観ておわりじゃない。観て、観たものが何なのかを知って、考えること。そこまでして本当に作品に触れたことになる。どんなにやっても自分なりに消化しきれない作品だって山ほどある。知ろうとしなきゃただの“物”。来館者のすべてがそうではないが、何を観に来たのだろうと首を傾げてしまう人たちも多い。