優しかった気持ち

人がつくったものが好きです。AKB48劇場公演。

ヴェネツィア展【@江戸東京博物館】

先日水曜、閉館時間を狙っていってきました。

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出品作品は全158点。立体から絵画の平面作品まで、さまざまに展示されていました。
「立体」といっても、地球儀や帆船の模型、食器、ヴェネツィアンガラス、写本など富んでいます。
自分は興味の幅がある程度しぼられているので、閉館時間を待たず小一時間で見て回れましたが、1点1点じっくり観ていたら足りない。
展示空間も凝られていて、あの導線が複雑な空間を作り出すのが江戸博らしかったけれど、本展では直線的なものではなくグニャグニャとした迷路のようで、それもまたヴェネツィアの入り組んだを思わせる。
章冒頭のキャプションの周囲には、ヴェネツィアンガラスのモザイクタイルが赤・緑・青といった原色の系統で並べられ、バックライトで照らされていたし、
舞踏会へと向かうゴンドラから貴族が降り立つ絵画のちかくに、上部が円形になったアーチと、荘厳なドアノッカーの展示など、雰囲気を出すために工夫されていました。


都市名の展覧会となると、実態がないので、何をどうみせるかというのが問題だけど、
かっちりとした歴史的な文字の解説と、その知識を立体的に組み立ててくれる展示にはじまり、貨幣や華麗な装飾の日用品、政治の場面や総督たちの顔を伝える絵画とつづき、美術史的な作品に移ります。
美術絵画の比重がかなり少なく、

目玉であるカルパッチョ《二人の貴婦人》(1490-95ca、コッレール美術館)にすべてを委ねた感じは否めない。
けれど、日本初公開ということで、ディスクリプションから作品の流通・ものとしての研究までがまとめられた薄い冊子が、図録に別冊で付けられるほどの力の入れられ様。
作品展示横の簡易な解説もわかりやすく、短い映像できれいにまとまっていました。



カルパッチョ《二人の貴婦人》

電車の広告でも本作がどんと打ち出されていた。
どの本で読んだのか定かではないけど、この作品を「レスビアン」と関連した項目で記憶していたので、とても楽しみにしていた。


本展の解説では「長年、客待ちの高級娼婦だという説が根強かった」とされている。
ポール・ゲッティ美術館蔵の同作者《潟(ラグーナ)での狩猟》の下方に続く画面だという大発見のもとに、2人の女性が「猟にでた旦那の帰りを待つ貴婦人」だという解釈が打ち出された。


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そのことで、画面に描き込まれたオレンジ、犬、鳩、百合の花などを、「夫婦愛、純潔」などと読み解くことが可能になった。
また、作品が描かれている板の右側面下方に、画面に少しかぶるようにえぐれた箇所があり、《潟(ラグーナ)での狩猟》と一続きのときにキャビネットか何か家具の右扉を装飾していた板絵だったのではとの推測が堅固になった。



「娼婦」だと作品の価値が下がるのか。

このように研究が進んでいくことは、拙いながらも美術史に身を置いている者としてはとても嬉しいことであるけれど、
「高級娼婦」という解釈が「いかがわしい」「汚名」でそれを払拭しましたというスタンスで、解説が語られていた節が腑に落ちない。
たとえそれが娼婦だったら、カルパッチョによる本作の価値は下がるのだろうか?逆に、高貴な貴族だったら作品の美術史的価値は上がるのか?
シーレのレスビアン主題作品を研究している私からすると、このような美術史家の態度にはかなり敏感になってしまう。


展覧会が、研究者間だけではなく一般人に呼びかけるものだとしても、そのようにある身分を卑下した表現は避けるべきと思う。
すくなくとも、画家が描いたものが何であれ、それを捉えた画家のヴィジョン、テーマを尊重するべきと思う。
後にそれが「いかがわしい」解釈・評価を受けたとしても、それに別の視点からのアプローチを加えるのが美術史家であって、絵画を崇高な存在として輝かせるための研究は無意味。


本作についての論文は海外の研究家の文章を翻訳したものであり、文化や意識のしかたが違うだろうから、言葉の選び方も異なってくるんだろう。
けれど「高級娼婦」という定説が間違っていたとしても、“その不名誉をぬぐい去る”ための発見・研究というニュアンスが本展・本作の解説のありとあらゆる見てとれるのは私だけか。

*1:参照画像はいずれも公式サイトから→http://www.go-venezia.com/due_dame_veneziane.html