優しかった気持ち

人がつくったものが好きです。AKB48劇場公演。

書くこと

自分の意見を書く、というのは大事です。
「だいじ」なことでもあり、「おおごと」でもある。
人の数だけ意見があり、人の数だけ考え方もある。
それはまったく悪いことではない。
けれど、それをどこに向けるかは考えなければいけない。
何を思おうと自由だが、何を言ってもいいわけではない。


どんなに立派な正統性のある意見でも、
選ぶ言葉、選ぶ相手をまちがえば、てめえの意見はただの戯言にしかならない。
そういうことを安易にできてしまうのが、ここインターネットという世界。
10年近く住んでいるうちに、コミュニケーションの媒体もさまざまに変わっていったけど、
それでも変わらないのは、言葉の文化であること。


言葉は、声であれ文字であれ、誰もが使っている非常に身近な存在だけど、
その言葉をちゃんと使えている人ってどのくらいいるのか。
辞書的、言語的に、というわけではない。
筆跡も個性もないデジタルの文字が並ぶ場所では、あまりに卑劣な言葉で溢れて乱用でしかないこともしばしば。
発言する相手が、どんな人でどんな思考をしているのかを知らないというのはとても大きな壁。
出会いの過程がリアルとは真逆になるインターネット文化では、
まず文字を駆使して話してみなければ誰ともコミュニケーションできない。
そんな環境で「言葉」が担う役割は大きく重い。


発信する側が考えたすべてを発信していることは毛頭ない。
言いたいことを掻い摘んで書くはず。
そんな交流が主だから、どんなけ相手の意見を読んでいたってウェブ上だけで相手を知ることなんかできない。
でもこの平べったいデジタルの世界では、
受け取る側からするとそれが発信者のすべてになってしまう(それが「キャラ化」)。
こんな危険なことがあるんですね。


それでも名前や身分を晒して、ブログを書いたりツイートしたりいろんなことを(本当の意味で)世界にむけて発信するやつもいて。
もちろん楽しいから好きでやっているんだけど、
無責任に言葉を投げることだってできる。匿名だし偽名や成りすましだって余裕なそんなところで、
ひとりでも多くの人に知ってほしいっていう無償のそんな動機でブログを書くことが、どれだけ大事で、勇気が必要か。









言葉はガラスによく似ている。
光を当てれば綺麗にきらきら輝くけど、
力を加えて割ってしまえば、人を傷つけることができる。
そんな当たり前の存在を、繊細で大事なものだと心に留めて「言葉」を使っている人は一体どれくらいいるんだろう?




BUMP OF CHICKENに「ノーヒットノーラン*1って曲がある。
誰だってびびり腰で、周りの目だって気にするし、表に出さないだけで悩みまくっている。


実際これまでにもいろいろなことがあったし、いろいろな相談もきいた。
俺はここに住んでからずっとブログを書いているけど、日記やウェブサイトを新設しても、周りの人の目が集まりすぎてしまったり、雰囲気にそぐわない書き込みをされたり、悪ふざけがすぎる荒らしがあったり、そこに私生活の多忙さが加わってしまったりで、途中で挫折してやめてしまう人が本当に多かった。


Google検索をすればヒットして上位に表示されるくらい大きなブログになっても、
それでも「書きたい」と増田有華について書き続けるゆみちゃんは本当に尊敬している。
そりゃぶっ飛んでたりすることもしょっちゅうなわけだが、
あの親しみやすい文体の裏にどれだけの苦労があるのかっていうことを、まず考えるべきで。


読者はもちろん、コメントをしたり交流したりする人だってみんなみんなそうだ。
あのブログを書いているゆみちゃんがいて、文章がある。
好きなときに好きなことをして時々休みまた適当に、やっていればいいものを、
パソコン画面の向こう側におなじ人間がいるってことがわからないようなやつのせいで、彼女がどれだけブログという表現に悩んできたか。


すばらしい有華推しだし、すばらしいブロガーだけど、超人でも神様でもない。
だから、ゆみちゃんを傷つけるやつは絶対に許さない。


俺がどうこういったところで何の解決にもならないし、もどかしいけど、
でもそのもどかしい現実を受け入れる覚悟があるやつが、ファンでありヲタなんだと思っている。





みんなが人の気持ちを考えられる、優しい気もちを持てる日がくることを願う。