優しかった気持ち

人がつくったものが好きです。AKB48劇場公演。

13期は不遇なのか

今日の「僕の太陽」公演は、相笠萌ちゃんの卒業公演でした。

アンコールからしかオンデマの生配信を観ることができませんでしたが、今日の萌ちゃんの卒業公演で披露されたのは阿部さん・こじまことの「制服レジスタンス」、13期9人で 「光と影の日々」、そして最後は出演者16名全員で「転がる石になれ!」。高低差がだいぶ激しかったですがw懐かしの大切なナンバーがあり、みんなの泣ける場所があり、アツいスピリットがあり、素敵な卒業公演だったと思います。私の推し遍歴だとチーム公演ではなかった「僕の太陽」で卒業というのがなんだかとても新鮮なのですが、前向きでいいですね。明日はうめたんの卒業公演が続きます。

13期は不遇なのか

13期はしばしば「不遇」と言われますが、本当にそうなんだろうか?とかねてから考えていた件について小言を書き残しておきたい。
そもそも「『不遇の13期』と言われる」って、誰が言い出したんでしょう?まとめの見出しか何かでしょうか?1チーム作れるくらいの人数がいたのが徐々にいなくなり、エース候補のスーパー研究生もいなくなり、後輩が増えてくると埋もれていき注目の機会が減り、メディア映えする選抜メンバーも居なく目立たない…などが挙げられるのでしょうか。2014年からしか彼女たちを見ていないので、それこそ研究生当時のことは知りませんし、彼女たちには彼女たちなりの苦労があったのは当然のことと思います。(前置きを丁寧に書いておかないと炎上する())


しかし、私はこの自虐的表現に疑問を呈したい。
この「不遇の13期」という言葉を我々13期のヲタクが受容してしまったら、選抜やメディア等に抜擢されることが「優遇」の定義になってしまうのではないだろうか。劇場公演を研究生のチームとして支えることで成長してきた彼女たちが「不遇」だったかのような言い回しではないだろうか。劇場はそんな下等な場所じゃねーだろという想いから「不遇の13期」という言い回しを否定したい。13期は不遇じゃない。少なくとも私の目にはそう映ります。
最前線でAKBの活動をする先輩メンバーと一緒の現場になる機会は、それこそ少なかったかもしれない。けど、何かといえば"期"で活動してたことがその当時は本当に羨ましかった。同期の絆で公演を1つ成り立たせる楽しさ、チームが作られていく過程を再発見させてくれた。それを不遇などとは呼びたくない。3期生以来(とても厳密にいえば2期生以来の)同期だけで公演する機会を持てたなんて、さらにはそれが後輩を含めて正式なチームになっちゃったりして、これ最高の待遇じゃないか!?と思えて仕方がないのである。
ものは言い様だから不遇だと思っている人はそうやって思っていればいい。けど、不幸比べって勝ったところで何になるんですかね。プラスの効果があるのならぜひ教えていただきたい。

そして当の本人たちは「確かに不遇だよね」と自嘲しながら劇場のステージに立って最高に輝いてる。彼女たちの口から出る「不遇」は辞書通りの意味というより「人とは違うよねうちら」のニュアンスが垣間見えて、それが苦笑いがありながらも誇らしげなアイデンティティのような聞こえになるんです。
チームベースで歩んできた彼女たちは、現在の形の"AKB48"にとっては異色かもしれない。でもそこには確かにAKB48が本来大切に持っていた本質的な魅力が詰まっている。TDCホールでの13期公演でも公演曲メドレーがあったりして、"劇場公演"を強く意識させられるものだった。邪道じゃない!AKBってやっぱこれだろ!とファンや運営まで熱狂したのは、ステージに立つのが"不遇"な13期の彼女たちだったから。そして萌ちゃん、うめたんは、はっきりと言ってしまえばチームよりも深く強い絆として、現役の同期全員と共に立つことができるステージを最後にセッティングしてくれました。すべて劇場が生み出した軌跡です。こんなに美しいことがあるでしょうか。

村上春樹さんの有名なスピーチに「壁と卵」というものがあります。固く冷たい壁(=人間が構築したシステム)にぶつかっては砕ける卵(=薄い皮で覆われた脆い魂)が13期なんです。だから好きなんです。そんな彼女たちの歩みを"不遇"という言葉で括ることは私はしたくないです。