優しかった気持ち

人がつくったものが好きです。AKB48劇場公演。

トップオタ

こんな動画をみつけた。
http://www.youtube.com/watch?v=8Xd2LAZNsqg&feature=related
インタビューを受ける“神”と呼ばれるヲタ5人のうち、4人が実家。一時期は仕事を辞めていたという人も。

オタクとはひとつの職業であり、人生を犠牲にするもの。
世間体を恐れずに、推しに全てを捧げる。
ある種の専門職であり、思想家であり、芸術家である。


的確な表現を求めるのであれば「パトロン」だろう。
本来「パトロン」は金持ちの富裕層が果たした役割だったけれど、
民主化の一途をたどり、特にこのような一般大衆や特定の趣味をもつ人たち相手のサブカルチャーを対象にする投資家は聞いたことがない。
まだ安定してない若者や金持ちじゃない一般層がオタクになった結果、
職務を全うできずにフリーターに転じたり、実家に拠点を置いたりすることになる。


特にオタクとして活動を充実させるにあたって、世間体は真っ先に捨てるべきもの。
そうでなければ到底、資金確保が難しい。
けど、人生っていうもの自体が「犠牲」だと思う。
人生において自分という存在を何事の「犠牲」にもさせなかったとしたら、生きてる意味が逆にない。
社会に貢献とか偉そうなことはいえないけど、金払って生きてること自体がちょっとは“貢献”になる。
立派な「パトロン」になり得ると思う。


ただ、その「パトロン」1人あたりの規模は極めて小さい。
だからこの「パトロン」には量が必要であり、実際、多くの「パトロン」(オタク)が存在している。わけだ。


ということをふと考えてみた。


「社会人」が偉ぶって、「フリーターは/学生はいいよね」なんて言うけれど
社会から必然的に与えられた地位を、プライベートも含め全うすることの、何がいけないだろう。
好きでやってる人もいれば、職に就けずにバイトでつないで生きてる人もいる。
“社会貢献”って何だろうと思う。
自分の時間を殺してまで“社会”に尽くすことがそうなのか。
社会人は口々に、世の中に貢献している自分に地位を見いだし、あんたらも頑張らなきゃいけないと言うけれど
そのすべてが正しいのか。