優しかった気持ち

人がつくったものが好きです。AKB48劇場公演。

 トイ・ストーリー3

3D、吹替版で観てきた。トイ・ストーリーシリーズの唐沢・所のこの吹替に関しては、他の作品とはわけが違うよね。
ざっくりとした展開は妹から(誰がどうしたとか細かい部分まで)話を聞いていたので、だいぶ安心しながら見れた。つまらないかもしれないけど、物語の展開を楽しむというよりは、その展開の中のメッセージや映像の作り込みを観たい。ネタばれは気にしない質なのだ。美術史やってるとそういう視点が着くらしいが、これが結構楽しい。

まず、どうでもいい感想。

ジェシーがイイ!
2よりも言動がボーイッシュでサバサバしていてかっこいいのだけれど、同時に弱々しく甘えてくる一面も追加されて非常にかわいい。しかもバズとの関係もあり若干色っぽい←。というわけで、ジェシー人形が欲しくてたまらない!手をつないで、タイヤのぶらんこでぐるぐるしたい!…というしょうもない願望なのだった。

ロッツォとか、物を大切にすることとか。

サニー・サイド保育園の環境とロッツォの支配具合にイライラさせられながらも、そこへウッディーが駆けつけて力を合わせての脱出を試みるあたりからは急激にワクワクした。やはり中盤(起承「転」結)からが面白い。トイ・ストーリーの醍醐味は、この子供心をくすぶる“作戦”とか、仲間と協力しての“アクション”なんだと思う。その点をウッディーというカウボーイ人形は本当によく理解しているし、だからこそいろんなおもちゃが居るけど彼こそがリーダー、映画の主人公として適役なわけだ。
ロッツォには最後くらいは良い奴になってほしかったけど、「仕返しする価値もない」奴でも最終的に“死ぬ”ことはなかった。善意的だけど、それでいいのかな…とも少し。ウッディーやバズが“殺す”ことはなかっただろうにしても、敵キャラとまでは言い切れず、だからといって悲しい過去のある可哀そうなぬいぐるみにも成りきれない、どこか中途半端な役どころだったという感想。まぁその中途半端さが、それぞれがもつ思想の尊重の難しさを物語っているのだけれど。


私的な話をすると、ぬいぐるみ(厳密にいえばキーホルダーになってる小さいぬいぐるみ)を失くしてしまったり、それと同じものを再購入したりしたことは過去に何度かあった。だから、元の持ち主であったデイジーがいかにロッツォを好きで大切にしていたか、映画では描写されていなかったけどロッツォ達を失くしてしまった時いかに悲しがったか(悲しがっていてほしい)は痛いほどにわかる。失くしたから尚更、いかに大きい存在だったかがわかる。人間の自分としてはそこ止まりだったけれど、失くされた方の彼らの気持ちなんてここまで考えなかった。もし新しい自分と同じ人形を大切にされていたら…なんて想像したこともなかった。
一番最近失くしたものはスヌーピーのキーホルダーぬいぐるみだったんだが、あの時ちゃんと問い合わせていればまだ保管されていたのかもしれない。どこで失くしたかは曖昧だったけど、多分あの感じだと京葉線から東京駅構内のどこかだったはず。思い出すと心がちくちくする。
更にかけ離れた話になるけど、こういう忘れ物って、最近は「買いなおせばいいや」といった思考で、持ち主が引き取りに来るケースは減少しているらしい。傘なんか、失くすの忘れるの前提でどんどん新しいビニールのが普及してる。ひとつの物を大切にする精神が失われてきている。しかも日本の気質として、西欧と比べると「使い捨て」はかなり馴染んでいる。(縄文時代から“使い捨ての土器”が存在していたことにショックを受けたことがある)。
スケールは小さくなるけど、おもちゃも同じ。「持ち主がいなければ悲しまないで済む」とロッツォは言ってたけれど、持ち主の側も物に執着がなければ失くした時に悲しまないで済む。捨てるのだって簡単…といったことが言えるだろう。自分はかなり感情移入する人間なのでこういうところはかなり弱いのだが、やっぱり大切にしなきゃいけないんだと思った。いろんな物がたくさんあるけど、自分が買った物(おもちゃ含め)には責任がある気がする。むやみやたらに物を買うのだってよくない。必要なもの、欲しいもの、長く大切にできるもの。ちゃんと考えないといけないと思った。自分のためにも、お財布のため←にも、“物”のためにも。

アンディーからボニーへ

1の物語が始まった時点で、ウッディーはアンディーが誰かからもらって引き継がれたカウボーイ人形とだったと思う。*1少なくとも、2の時点で「古い」ヴィンテージ物のおもちゃだったから、ウッディーという人形劇のキャラクターがアンディーが生まれる以前にすでに存在していたことは確かだ。2冒頭のヤードセールで鶏男(名前忘れた)に「これは売れない」と断る母親や、今回3でアンディーがボニーにおもちゃについて語るシーンでの台詞からもそのことはうかがえる。*2
数日後に引っ越しだというのに全然整理していなかったり、いつまでもおもちゃ箱の中身の処分に困っていたり、ウッディーだけは譲るのを拒んだり…。大学生になるアンディーは、子供から大人へ移っていかなきゃいけない。大学にはおもちゃは持っていかないし、自宅に置いておいたって前みたいに人形遊びすることもない。けれど踏ん切りがつかない。っていうのはアンディーが大人への一歩を出しきれていない象徴。
それを後押ししたもののひとつが、ウッディーが走り書きしたメモ。映像としてその内容は公開されていない。「これ本当にあげた方がいいと思う?」といった台詞があったけど、彼はあれを母親のメモだと思ったのだろうか。ウッディーがどんな筆跡かはわからないけど、おそらく長く一緒にいた母親の文字ならわかるはず。きっと誰の筆跡かを、アンディーはあの時確かには理解できなかったはず。もし“大人”だったら、おもちゃは動くはずがないと思ってしまうところ。だけれど何も怪しまなかった。母でも妹でもない誰の文字かわからないメモを、アンディーは信じてボニーの家まで行った。いい意味で彼の心は“子供”だった。
それとの決別を、“大人”になる決定打は、ウッディーが自らあの段ボールに入ったこと。あのドタバタ劇の中ですでにボニーはウッディーを知っていて、遊びたがる素振りをみせる。アンディーはそれを一瞬拒む。よく考えて結局譲るのだが、ウッディーだけでも手元に残ってしまったら、アンディーは手放すべきタイミングを完全に失っていただろう。ウッディーはアンディーにとっての“子供”の何よりもの象徴。だけれど、それをこれから“子供”の時代を経験していくボニーにたくす。それはアンディーからボニーへ、ウッディーが手渡しされたことが物語っている。アンディーは“子供”時代に決定的な終止符を打った。車を発進させる時はモヤモヤが晴れない様子だったけど、それもきっとあの時だけ。いい意味で、すぐ忘れただろう。あれがウッディーが相棒として、アンディーにしてあげることのできる最後の役目だったんだね。

不覚にも泣いた話

焼却炉のシーンあたりで泣かなかった(むしろ神の手の出現に感動してた)から、あれ?俺泣くとこ逃したと思ってたんだが。
ボニーに譲るだけならよかったんだ。そこでアンディーが語りだしてから、ジェシーを取り出してから、汗のように涙が止まらなかった。毎日のように遊んでいた時のこと、ちゃんと覚えてるんだね。おもちゃの性格とか設定とか。どんなことして遊んでたとか。
あのシーンはアンディーとボニー中心。人間視点で、おもちゃ視点ではないから彼らは動かない。だけどあの時、アンディーが優しく持ってくれて、みんなのことをちゃんと覚えててくれてるってわかって、何年ぶりにあの頃みたいに遊んでくれて……本当の本当に嬉しかったんだろうなって。涙が止まらなかった。おもちゃ達がおもちゃで居たことでその感が一層強まった。
自分もわりと一人遊びが好きだったから、人形劇っぽいアクションごっこではなかったけど、やはり1体1体の人形にちゃんと性格があって、一番のお気に入りも、脇役でも絶対に外せないのもいて、本当にたくさん遊んだ。今は納戸のうえのほうに袋詰めされてるけど、もし誰かに譲るとなるとああやって紹介して、懐かしんで、するんだろうな…。って。

トイ・ストーリー

ができるとしたら、というしょうもないことを考えてみた←。
スターウォーズの流れをパクるつもりは全くないが、次はエピソード1として、ウッディーが新品のおもちゃだった頃の話を作ってはどうだろうか!
バズ・ライトイヤージェシーがおもちゃとして買われた当初の話は作品内ですでに描かれているけど、主人公の中の主人公であるウッディーはその部分を語られていない。知ってるようで知らない。上記したように“アンディーの父親”の謎もある。もし本当にウッディー人形が大切に受け継がれたおもちゃなら、そこんとこはっきりさせてもらってもいいんじゃないのピクサーさん!←

*1:ちゃんとした設定を私は知らないのだが、この映画でアンディーの父親が登場しないから、彼の形見として持っているとかいう説をどこかで聞いたことがある(信憑性は知らない)。

*2:実をいうと、1はあまり観込んでいないんだぜ\(^O^)/mixiにも同じこと書きたいけど、その前に前作を観直そうかな。