「アート」として真剣な感想を書きますが
映画史に関してはど素人ですし、まぁ気ままに(´ω`)
「アーティスト」
物語の舞台は1927年から1932年の米・ハリウッド。
サイレント映画の俳優ジョージと、トーキー映画へ移ろっていく大衆の興味と葛藤しつつ
エキストラから知り合いトーキーの人気女優となったペピーとの人間関係を描いた物語です。
映像
カラーフィルムで撮影され現像時にモノクロにされたそう。
カラー映像に慣れてしまっている現代人の目でも、白と黒のあいだのさまざまな色のニュアンスを観ることができました。
人間の目と似た映像だから、注目したい部分以外(“背景”になる部分)の鮮度が決して高いわけではないけど、
注目したい部分の、衣装の素材のちがいや微妙な質感なんかは鮮明に読み取ることができる。
テレビもない時代、貴重なニュースを知るための情報源として人々は映画館に足を運んだ。
1902年フランス、ジョルジュ・メリエスの「月世界旅行」が最初の物語映画なわけだけど、
19世紀末にはパリが芸術の都になりつつあったわけだし、フランスの人々には映画にも「アート」の感覚があるなぁと。
「画」を楽しむ。
そんな気を強く感じた。
序盤、ペピーがジョージの楽屋に忍び込んで、掛けられたスーツに腕を通し、1人2役で自分を抱きしめるシーン。
彼女の腰にまわされた“男性”のほうの右手が本当に“男性”の手だった。
予告版の切り取りなのでフル画面ではないけど。
演技に息をのむっていうのはこの感覚か。
観てるだけでうっとり夢見心地になってしまう綺麗な「画」だったな。
こんな動画のキャプなんかじゃ、白と黒とグレーが織り成す「色」の美しさまったく伝わらないけどw(ノω`)
この視覚的な美しさは、ディスクに焼かれてからでは、スクリーンより小さなテレビでは味わえない。
というわけで「アーティスト」を「観たい」かたはぜひ映画館に行きましょう。
ちなみに、自分が観に行った映画館では「リピーター割引」とかで2回目以降は1000円で観られるそう。
「映画」っていうスタイルにこだわった作品なんだなと感心してしまいました。
声
予断ですが、自分はディズニー映画が好きなので、初期から最新までさまざまな作品を観てきたつもりです。
「シリー・シンフォニー」やミッキーが登場する短編作品などの日本語吹替版VHSでは、弁士が物語や状況の説明をします。
でもオリジナルの英語のままの映像をみると、そのような声は一切被せられていません。
キャラクターのセリフも楽曲の歌詞、音楽の一部として語られていきますし、登場人物でない第三者の声による“状況説明”のようなものは全くない。
階段で2人が話すシーンは、構図としておもしろかったけど、この映画の本質につっこむ前のとっかかりみたいなものだったのかな。
会社を辞めることを決意したジョージと、仕事がきまって上機嫌のペピー。
ジェスチャーや表情だけで会話が展開されていくわけだけど、「声」がない。
クラシカルなオーケストラの生演奏のBGMに代弁されてきた、喜怒哀楽という「音楽」。
それが、物がたてる「音」、人が発する「声」として作品中に初めて登場するのは、ジョージが脂汗をかいて目覚めた悪い夢のシーン。
グラスをおけば音がたち、電話のベルが鳴り、犬が吠える。
なのに自分は「声」が出ない。恐ろしくても悲鳴もあげられない。
サイレント映画にまったく言葉がないわけではなく、暗転した画面にセリフが文字だけが示されるわけですが
すべてのセリフではなくごく一部に限られてくるというところが肝心。
ストーリーを解釈する上で最小限の言葉、登場人物のセリフだけが、観客に伝えられる。
逆にそれさえおさえていれば物語を理解できる。
あとは目に見えるものから感じ取ればいい。
こういう「見る」ではなく「観る」映画。
映像のほうから何かを語ってくれるっていう「受身」的な観方だと、映画って楽しめないと思う。
そのことが今回よくわかった。
1927年の時点で、アニメーションは既にディズニースタジオが台頭してきている。それも音声はサウンドトラック。
サイレント映画の古風な原理が、技術の急速な進歩とともに大衆の興味から遅れをとっていってしまった。
大恐慌という時代も悪かった。
ジョージが発狂してフォルムを燃やしたことから火事に発展してしまうのだけど、あのシーンは不覚にも目頭が熱くなった。
それでも時代の隅においやられたボロボロのムービースターを、近所の人々が気遣い、助けてくれる。
財産もギリギリ、大女優になったペピーに支えられていた生活、やりたいことをやっても結果がでない絶望。それでも生きることが求められる、そういう葛藤で。
映画
観客である我々は、ジョージの苦悩に同情してはいるものの、
“サイレント”として撮られたこの映画の行く先(トーキー)に期待するという矛盾を抱えたまま、物語を観続ける。
技術の発展はたしかに大きな話題を呼び、注目を集める。
だけど、それを興味で取り入れただけの作品を作り上げたところで、自らを「アーティスト」と呼べるのか?
オスカー賞も多部門において受賞を連発した本作。
「なんで今、サイレント?」という感想は、映画を観た人の声としてもきくけど、
「アーティストという“サイレント”映画」自体が、主人公の「ジョージ・ヴァレンティン」自身だったと思う。
CGや3D作品が競うように上映される現代にあって、
映像のスペクタクルでもなく、スリルやメッセージですらなく、
オーケストラ、演技、表情、言葉、物語など、そこに示されたひとつひとつを味わう「映画」という形態の美しさを主張している作品だなと思います。