優しかった気持ち

人がつくったものが好きです。AKB48劇場公演。

三宅唱監督「Playback」感想と「キエタイクライ」MVの考察

黒澤さんお待たせー!(待たせてない
私がそれに気づいたのは「キエタイクライ」リリース後でした。
2013年秋にあいちトリエンナーレで名古屋へ遠征した際、ちょうど滞在日に上映があったにも関わらず三宅唱「Playback」を観にいかなかったこと…。
キエタイクライを聴きながら、届いたあいトリのカタログを開き愕然。真利子哲也さんが監督された「Mine」はそれ1本で書いたのだから…と思いつつも、自分に引け目を感じてついにキエタイクライのブログを書くことを放棄……という超個人的経緯がありましたが、2014年1月のリリースから1年以上が経った今、満を持してブログの編集画面に向かっています。なぜなら
今の私は「Playback」(2012年)を観たから!
(`・ω・´)*・゜゚・*:.。..。.:*・

「Playback」

2月28日から2週間、渋谷ユーロスペースにて期間限定でPlayback上映しているのです!
数年前にアムステルダム国立美術館の映画を観たり、近隣のライブハウスは河西さんがお世話になっているので近くに行くことはあったのですが、いつものBunkamura側からではなく道玄坂から行こうと選択した結果が間違いだった…。迷子にこそなりませんでしたが想像したより遠くて着かなくて、109の横をひたすら上りながら通りすがりに誰かに刺される気すらして生きて帰れる心地がしませんでした(ものすごい偏見)。逆に映画終わって23時過ぎの小雨降る渋谷のほうが安心して歩けたし、謎の親しみすら感じました。
映画館場内はちらほらサラリーマンとかいたけどやたらと若者が多くて、見知った人たちが挨拶する声も。映画の予告編には東京藝大大学院の修了作品上映が流れたりしてたし、映像製作してる学生かな。

主人公ハジは映画俳優をしているのだが、お仕事うまくいかなかったり奥さんが離婚して出ていったり。検査で行った病院で声を掛けられて、友人の結婚式に地元の水戸まで出掛ける。移動中の車中で寝て、今の姿で学ランを着て学校にいる夢をみる。それから夢か現実かぼんやりしたまま、お墓参りして、友達の家にいって、スケートボード見つけて、挙式のホテルにいって、中庭の森に迷い込んで…そこから、男の子がスケートボードで走った冒頭シーンと同じ住宅街の道に戻ってきて、同じようにハジがスケートボードで滑走していく。道の途中で倒れて、その道を少年が助けでも呼びに行くようなスピードで走っていく。というデジャヴが2度ほど。同じ映像、同じ場面だけど違う展開、違う視点が組み合わされてリフレインする。
その推理の材料にできそうなのは、ハジの服。肩の小さい刺青?と同じ、羽根を広げた鳥が背中にプリントされたシャツ。後半には結婚式に見合った黒いジャケットを着るんだけど、今のままの姿で「過去」に戻ったハジは学ランを着ているし、それまで「現実」と思っていた時には状況に見合わずとも鳥のシャツのまま。モノクロの映像が現在と過去(あるいは未来)をごちゃまぜにしているし、主人公も誰も今どこにいるのか時間軸がはっきりしないというのがまた、だれかの頭の中の出来事なのか、過去に本当にあったことなのかの判断が見る側に委ねられてる。
2度のリフレイン、すなわち3つの時制のPlayback(数字が正確かは不明だけど)のたびに、ルービックキューブを組み替えて一面一面の色のそろい方が少しずつ変わっていくみたいに映像の組み合わせが変わって、新しい側面が見えてきたり、異なるニュアンスが生じる。それがくり返されていくと、どれがこの映画の“事実”か、どれがハジが見た“空想”かというのが不思議とどうでもよくなってくる。本当にあったことも、過去の出来事になってしまえば「頭の中に入ってる記憶」に相違なく、「事実」も「空想」も「どこかで見聞きした話」もすべてが同一線上に並んでしまうなぁと常々思いますが、この作品も同様。
でも着実に現在の行動が変わり、その結果、ラストにある未来はさっきまでくり返していたはずの日常なのに前向きの兆しを見せている。劇的な救いの手はないけど、決定的な絶望もないリアルな展開が、訴えかけるように身に沁みました。
私たまに(今日はいい日だったなー。今の私、映画のラストカットっぽいな)と思ったりすることがあるんですけど、物語に必ずあるエンディングって現実には無くて、美しい終わりというのも約束されてないし、時々やたら絶望的になったりしますwwそういう意味でいうと「Playback」という作品は物語的な抑揚は大きくないし、演技も演技じみてなくてドキュメンタリーみたく感じられる部分すらあり、「映画っぽくない映画」と言えるかもしれません。でも、沁みてくる。同じものをもう一度観たいと思う。そう感じさせるほどに人の心の流れにぴったり寄り添うような表現こそ革新的で、そんなところが三宅監督が鬼才といわれる所以なのだと思います。
ちなみにエンディング曲を歌われてる大橋トリオさん、お名前どこかで…と思ったら2355で放物線の歌を歌われてる方でしたw映画終わったのが23時過ぎで帰りの電車のことを心配し始めてゆっくり聞けなかったけどw彼の声は、あのくたびれたハジの物語を浄化していくようですね。

「キエタイクライ」MV

映画の感想に終始することもできるくらいの魅力ある作品だったわけだが、当ヲタクブログとしては河西智美さん3rdシングル「キエタイクラ」MVの感想を書きたい。
三宅監督の作品だし、Playbackを観たことで気づいたこともあったから。それに、彼をMVの監督に抜擢したり映画監督が撮ったMVの面白さに気づかせてくださったクラウンレコード各位&黒澤さんへの謝辞の意味もあります。河西さんのMVがなかったらこんな素晴らしい作品にお目にかかれなかったわけですし。
あくまでも一個人の趣味としての他愛もない感想ですのでご承知おきくださいm(_ _)m

赤レンガLIVEでMVが初公開になったあの日が懐かしいですなー(/∀\*)といいながらタイトル載せておいていきなりPlaybackの話に戻ってしまうんですが(笑)
上記したような動機故、「キエタイクライ」との共通項をみつけることを気に留めながら「Playback」を観ていたんですね。
その中で序盤から感じたのは、三宅さんはが好きだなーということ。登場人物の横を通過していくのはバスやトラックの大型車が多くて、彼ら自身が運転する時にはVWやビンテージ物のかわいい小型車がお好みのよう。本当に道路や交差点のシーンが多くて、それはPlaybackにもキエタイクライにも共通していると感じました。
Playbackでハジがいるのはいつも代官山の車道の近くか水戸へ向かう高速や一般道。交通量の多い道路のどまんなかを横断するし、道路からホワイトアウトしたと思ったら音声そのままで寝起きのシーンに繋がるし、その音から逃がれられない感じ。車に乗って仲間と移動するシーンでも、複数名を同時に映していたのはハジの母がいた時だけ。それ以外はしゃべってる人を一人ずつしか映さないから誰と誰が相乗りしてるかわかりづらいし、相槌も無視でほとんどその人の話す声しか聞こえない。きっと会話は成り立ってるんだろうけど、一方的に話してて何かのインタビューに対して独白してるみたいだった。
それと同時に、停車してる車内や、ホテルの中庭に面したガラス張りのホール、吹替えのレコーディングスタジオなど、ガラスごしに外の声が聞こえたり窓枠なんかのフレーム越しに外の様子が見えたりする場面も多く出てくるなと感じました。
見えるのにぼんやりとしか聞こえない、自分が存在してるのに透明のガラスを隔てるとそこに存在してない。そんな不思議な立ち位置におかれると、たとえ現実の光景でも自分の周囲で起こっている危機感は薄らぐ。とまらない車道の流れの中でどこか非現実的な感覚に陥る。
現実を直視しているはずなのに、窓の外の風景は本当はすべて嘘でしたと言われればそれまでのような切り離されたところが、車の中という場所なのかなと思いました。

「キエタイクライ」でも、ハワイに来て思い出のホテルまでの道は車内。シートの半分、河西さんが座ってるところと車窓だけが映って、目を閉じてヘッドフォンで耳までふさがっている。その後に続くハワイの街の風景は車窓から眺めるのと同じスピードで流れていくけど、ふとバッグひとつで歩道を行く河西さんの急激な減速に、思い出の地にぽつんと投げ出されたような感覚を覚えます。そして車での虚ろな表情をうつした同じ空間の映像を細切れにつなぎ合わせているところに、素直に語ることのできない感情の複雑な流れが表わされてるなーと思います。

画面が左右に分かれて過去と現在が並行して映されるのは斬新ですが、過去のほうはちょうどハンディーカメラで録画されてる映像みたいな手ぶれがあるんですよね。過去と現在ではカメラのレンズを変えて撮影しているから、色味が違うんだそうです。
あと一瞬ですが、2階建てバスの2階席でデジカメ持って写真撮ってます。Playbackでもハジの友達の妹は、車の中でも歩いてる時もデジカメを持っているし、テレビで娘のホームビデオを何度も見てる。過去を眺めたり、今を記録したり。そして唐突に怒る。三宅監督の中でカメラと女の子ってなにかありそう。

さて。ここの2画面並んで対比されてるものに、バスに乗ってるか、徒歩かという大きな差があります。
村上春樹の小説に「眠り」という短編があります。日常の目にはみえない些細な制約で、窮屈な日々から逃れられないことに気づいた専業主婦が最後、エンジンがかからない車の中で車体ごと揺さぶられて絶望するシーンがあります。そこでは車という個体をある種の無機質な“殻”として捉えることができると思います。

MVの中で河西さんは「歩くのが嫌い」なはずなのに、車ではなく自分の足で、海に向かって車道の流れに逆らってぐんぐん進んでいく。
日常生活や社会の象徴として車の流れがある。車は1人ずつの内相的なもの。そのうちの一台の車から下りて自分の足で歩くという行為に、日常の大きな脈から外れて、倍以上の速さで通過してきた道をひとつひとつ自分の体でたどるという意味合いを、三宅監督は付与しているのかなーと思います。


彼と訪れた店は電気が消えていて閉店中。ショーウィンドウに思い出を眺めているようにすら見えるけど、ここも三宅監督がお好きと思われるガラス越しに何かを眺める場面設定。
先にも書きましたが、目の前にはっきり見えているのにどこか現実味が薄れる距離ですよね。はっきり見えるのにはっきり聞こえない。ちょうど現実なのか夢で見た記憶なのか曖昧になったビジョンと似ている気がします。

そして、整理がついた最後には、その車の流れを眺めるだけの余裕ができる、空気の入れ替わった心境へと変わっていける。
MVの始まりは、モノクロの映像に波の音。キエタイクライのスタートと同時に映像が西陽の色にそまってカラーになる。河西さんの歌とともに始まるハワイの彩りある傷心旅行が、記憶にしがみついてたモノクロ映像を払拭するような感じ。オズの魔法使いなどでもそうですが、技術的に生じたモノクロフィルムが、カラーフィルムと対比的に表現のひとつとして使われるのっておもしろい現象ですよね。
…などなどw 思ったよりもPlayback鑑賞メモみたくなりましたが、 三宅監督の映画作品を1つ見たことで、「キエタイクライ」にそんな“5分の映画”を発見することができました。

あっという間でPlayback上映期間は明日3月13日(金)までなのですよ!こんなに親しめる映画がDVD化もないなんて世の中おかしい…
上映が21:10〜23:10と遅めの時間帯ですが、絶対後悔しません。おすすめです(`・ω・´)bみなさまぜひ渋谷ユーロスペースへ…!