同性愛 を軽視する人は数え切れないほどいるが、
そもそも生物学的にみれば、同性愛というものはナンセンスこの上ないことで、
このような愛をもつのは、精神・思想を持って生きる人間だけだ。
(動物の事例を知らないけどないことはないんだろうな… 野生動物にも、飼われてる動物にも。)
だから、どんなに知識をもって解ろうとしても生理的に受け付けない…という人が出てきてしまうのは当然だと思う。
古から同性愛ということについてはいろいろと考えられてきているけど、
でも人間が生物として、生きていく上で余裕を持てる、思想の自由が許された時代。
この時代に生きていながらもなお「同性愛」を軽視し続けるのは、ただ現実を見据えられないだけに感じる。
それこそ【性】のあり方のなかで、「子孫を残す」という概念が薄らいできているこの時代、
今後【性】の価値観自体変わっていくのかもしれないというのに。
っていうのはおいらがみる「同性愛」の捉えられ方。
以下、一番言いたいこと。
「間違った同性愛」があるのではないか、ということ。
異性とも同性とも、親交をもてる・人間関係を築ける上で、
同性を愛する性なのであれば
そこで初めて「自分は同性愛者」ってことになるんじゃないだろうか?
「異性を愛せないから…」という声をよく耳にするが、
(というかそういう類のカップルって、見てるとその雰囲気から感じられるモノってあるけど)
同性愛は、決して、
異性恐怖の
逃げ道ではない。
だから、
「自分は同性愛者」を答えとしてはならないのに、答えとするには考えが及んでないのに、
そう思いこんで(思いこませて)その世界だけで生きようとする人って、多いと思う。
恐いからで弱ったふりをしてカラを破ろうとしない人って、多いと思う。
「恐い」のカラを破れないんじゃない。
今が居心地良いから、破らないんだ。
「愛する」っていうのは、精神的なモノであれば
そのなかの思想・精神というものに性別はない。
だからこそ、いろんな人と出会ってきたなかでも特別な存在になる。
しかし、それが異性または同性が「恐い」で逃げてきた結果に出会った「愛してる」なら、それは失礼になるんじゃないか。
男のなかで一番、女のなかで一番、でなく、
両性で一番、
つまり人間のなかで一番「愛してる」。
それなら、相手が異性であろうが同性であろうが、関係ないのではないか。
そこで初めて「自分は同性愛者」という意識が成立するのではないだろうか。
というのが、経験と周囲を考え続けて出てきた、おいらの提示。
同性愛
だから、おいらは今、どちらにも付くことができない。
という状況になっているんだ。
ちなみに、おいらが知るところでは
『マリア様がみてる』の「いばらの森」、AKBの「禁じられた二人」など
同性愛を扱った物語・同人が人々の心に響くのは、
それが形式化・美化されたうっとうしくない別世界だからとか、
悲劇的な部分からいわゆるカタルシスとか、だからじゃないかなと思います。