山羊…それって…もしかして…シルビア?

学部のTAをしている関係で、信濃町の「文学座アトリエ」へ観劇してきた。


不条理演劇と呼ばれる部類だそうで、
平凡な家族(やや裕福)をもつ建築家が山羊に恋い焦がれていることを、親友に暴露したことがきっかけで
その妻(ときどき学生でゲイのひとり息子が出てきて)あれやこれやと話し合いをしていくのだが…。

山羊…それって…もしかして…シルビア? イントロ

「ワゴン車がない」って台詞で悲劇的な結末は読めて、最後に山羊のシルビアは妻の手で首を切られてしまうわけだけど、
それにしても最後の「彼女が君になにをした?」がどれだけ刺さったことか。
だれかが獣姦やホモであることで、誰が誰を傷つけるのか。
夫が山羊に浮気したことで妻が傷ついたとして、それは本来、山羊だからではなく、愛する夫が他のだれかを愛したから、になるはずのその定理が崩れている。
息子が窮屈な学校の話をしても、結局はその進学先も両親が決めたもの。社会のレール。


その社会のレールに乗っかっていくには、あまりに感性が豊かで、素直すぎる主人公。
ただその感覚をとがめることはできない。(この劇でいうと)その性欲の感覚は、意識してどうにか動かせるものではない。
それなのに「信じられない」「病気だ」と罵られ、「なおせ」と言われる。
なおせと言われて「なおした」と自白する、獣姦の“悩み”を持ちよった人々の話を聞いても、納得できない主人公。


物忘れが進んでて、子供みたいな落ち着きのない動きや振る舞いをして、なんでも素直に…「言わなきゃ…言えない…おお神様ぁ」…ものすごい身に覚えのある感覚。
自分が体験した事実には何の罪もないのに、それはだめだと常識に叱られる。
ふざけるな!
なんて具合に、主人公にどっぷり感情移入しながら観ていた。


気になったのは、やはりセクシャルマイノリティとしては、息子の扱われ方。
ゲイの男の子の相手は「オカマ」、がまんできずに父親とでも……という、あれは完全に傾倒したイメージでしょう。
1958年の執筆のようなので、当時の「ゲイ」のイメージはそうだったのかな。そうだと信じたい。
観客はみんなそこで笑っていたけど、それこそ“動物との恋”と同じように見直すべき軽蔑イメージですよ…。


あの劇の中には被害者しかいなかったな。“常識”の被害を受けて苦悩する人々しか。


またなんか思ったことあったら書こっと。