優しかった気持ち

人がつくったものが好きです。AKB48劇場公演。

【ネイチャー・センス展 日本の自然知覚力を考える3人のインスタレーション】森美術館

今月はじめに院の同輩に誘われていってきた、六本木はしごツアー。
これ以上遅くならないうちに手短ながら書いておこうと思う。

“これも自分と認めざるをえない”展

こういうインスタレーションの展覧会はほぼ初めて。
自分の名前・身長・体重・目の虹彩をデータとして入力。作品を通すと、自分のデータが呼び起こされる。
自分と同輩はばっちり自身のデータにヒットした(お互いに無二ともいえるような特徴的な体質である)けど、類似したデータを持っている他人のデータを呼び起されている人も結構いた。
個人のID化が云々といわれる時代だけど案外PCってテキトーなもんだなと思った。コンピュータも人間が作ったものなんだから完璧なんてありえないわけだけど、その高性能さゆえに期待してしまっているのが事実だし。
ただ体験型となるとどうしても“待ち時間”が出てきてしまうのがなぁ。
一番印象に残って考えさせられたのは《自分が先か、金魚が先か》。
鏡をみて自分は、まず先に金魚(むしろ背後の水槽に金魚がいないこと)に気付き、自分は逆に鏡に写ってないことにどきっとした。
それだけ普段、人間は自身の存在を意識していないってこと。
なるほどーと納得。確かにそうだ。
自分なんてそれくらい軽い感覚でいいんだということで、今回の展覧会自体もそのような体らしい。
実際はなかなかそんなことできなくて悩みまくって重たくなっていくんだよね。
デジタルは必ずしも自分の要素から生まれたデータでしかないし、世界を見ている自分は自分を自分の目で見ることはできないし。
存在って、なんだかなぁ。



SENSING NATURE

吉岡徳仁、篠田太郎、栗林隆の3人。
栗林さんの作品はわりと紙や土など、自然の素材を使っていたから作品っぽく感じられた。
けど実際、ほとんどの作品が電気がなければ何もできない。展覧会場が停電したり、データすっとんだら終わり。
栗林さんはわりと土とか和紙とか、手で触れられる(展示は触っちゃいかんけど)素材のインスタレーションが多かったな。
バックアップはいくらでもあるんだろうけどそういう問題じゃなくて、そこにモノとして在り続けない。
その素材やツール自体が“現代”を象徴していると思う。