偶然と必然論。

実にどうでも良いことなんだが、
思い出そうとしても思い出せないんですわ。
いつから美術が好きになったか、って。


ただ昔からそういうテレビって言うのは父親がみてたから一緒に見てたし、
だからか、学校やら授業やらで有名な巨匠の絵(ダヴィンチとかルネサンス期特に)をみるとヤケに他人事とは想えぬ衝動にかられるというか
今おもえば小学校の廊下にかかってたのはミレーの《落ち穂拾い》の複製だし、美術の教科書の表紙はモリディアーニだったし。
ゲーム中に登場する海賊船とか古い航海図とか英字の分厚い本とか、
妙にかっこいいなーって感じましたね。あの古めかしさに惹かれたのかな。

そういった意味で、昔から触れてきた美術作品っていうのは結構記憶の片隅に残ってたりするわけだけど、
なぜ魅力を感じるのかとか、よくわからないっすね。
潜在能力なのかもしれないね。
美術館に死ぬほど行くようになったのは去年からだけど
もし今この大学・学科に入ってなかったら
その好奇心の「芽」と言いますか。それを枯らせてたわけですよね。
それを思うと、「偶然」で人生は成り立ってるのかなとおもうわけですね。



「偶然」というのは、時を経ると人は「必然」と呼びたがりますが
おいらは必然なんてそんな運命めいたレールは信じませんね。
ただのひねくれかもしれませんが。
まずこの言葉が対義語っていうのもそもそも間違ってると思うし。
偶然も、必然も、物事の流れに任せてればそうなりえますが、この世の中には「心」という無秩序で勝手な歯車がいくつも回っています。
「変えよう!」と人の「心」が動けば、どうになってなりえますよ。

「偶然」にそう成った。
けどその偶然がなかったら、今の自分はなりえなかった。
そう感じたとき人は、別の道を進んだ自分、もしくは脱線した自分というのを想像します。しかし現実に自分は一人だけですから、自分の他の姿なんてうまく想像できないわけです。
すると今の幸福・安堵とともに、その「偶然」に対する恐怖が押し寄せる。
こうなれてよかった。あっちへ行かなくてよかった、みたいな。
すると人は、
この自分の歩いてきた時間を「偶然」などと気まぐれなものにしておけない。
自分はこうなる定めだった。こうなるために今までがあった。
これは予めきめられた運命だったんだ。
自分は必ずそうなるものだったのだと信じて、
「偶然」のその続きに「必然」をつくったわけです。


と、これがおいらの思う、偶然と必然です。



おいらが美術を好きになった理由はよくわからないけど
それは単に、祖母にそういった趣味があったとか、父親がそういう番組をよくみていたとか、ディズニー映画の存在だとか
いろいろとそういう「偶然」が絡み合った結果だとおもうし、


おいらがもしあと13点とれてて、第一志望の大学に合格していたら、
こんなに美術に深い知識を得ることはなかったかもしれないし、
今の仲間に出会うことはなかった。
その合格までのあと13点は「偶然」とることができたかもしれないけど
「必然」的に問題が解けなくて、とれなかったわけじゃない。
その分野が苦手だったのはたまたま。(これは「必然」になっちゃう?)
運がよければ「偶然」思い出せたかもしれないし、適当にマークしたら「偶然」当たってたかもしれない。
あの13点は「偶然」とれなかったものだと思ってる。



中学の長距離の授業である経験をしたからこう思うのかもしれないけど
おいらは長距離が死ぬほど苦手で、途中で歩いたりせずに走りきるとかできなかったけど
「ゆっくりでいいから休まず走れ」とたまたま言った先生の一言で
おいらはその言葉どおりに走ってみた。
するといわゆる”ランナーズハイ”に到達したのか、
死にものぐるいでおいらは完走できた。
あの時、一瞬でも「無理」「もうやだ」と思ったら完走はできなかったし
おいらの気持ちが動いた結果「偶然」そうなったんじゃないかと思う。
無理矢理でも進路を変更することはできる。
それを繰り返してたら「必然」とかってないんじゃないかな。
気まぐれというか、それが「偶然」に繋がるというか。



例外的なものを挙げれば、
”彼”のおかげでおいらが人間として大きく変われたこと。
あれは「偶然」が生んだ「奇跡」だと思ってる。




「必然」をおいらは神秘的なものとして捉えすぎすぎなのかもしれないけど
だから、必然とか、運命とか、
そんなきれいなもの、ないとおもうんだよね…。