優しかった気持ち

人がつくったものが好きです。AKB48劇場公演。

日本の美術館名品展

展覧会の問題

行ってきた。15時半過ぎ頃に着いたのだが、半分しかじっくり見れなかった。つまり日本人画家の展示に入ったあたりから完全に流し見。気になる作品を一瞬じっくり見る程度。本当に時間がなかった。220点はかなり多い。もう一度行こうかな。
国外の美術館の展覧会はよく催されるが、日本で日本の美術館の所蔵品を集めた展覧会を行う必要があるとは、個人の定義としては、博物館学における事件だと思う。そして、日本を代表する美術館が密集する「上野」のブランド化を意識せざるを得ない。
全国の公立美術館の祭典としてはおもしろい企画である。全国を練り歩かずとも様々な作品、常設展では有り得ない作品配列で楽しむことができる。が、作品の時代や地域などの区分こそあるが、展覧会としての導線はなく、全体の展示形態はそれこそ常設に近い。企画展示ではなく、万博のように並んでいるだけであった。
各地域における美術館、研究の成果としての所蔵品公開という活動が一般に浸透していないことを仄めかしているかのようである。「展覧会を見に行く場所」という日本における美術館の存在(固定観念と言ったほうが正しいか)を象徴する出来事が、本展覧会だと思う。
常設展示で研究先(所蔵先)で公開されているのと、展覧会で公開されているのと何が違うだろう。作品の価値や、1点1点を鑑賞することにおいては、各々の常設展示と、本展覧会の間に何の差異もない。日本人がいかに「展覧会」「企画展示」という期間限定の特別行事に執着があるかがわかる。「展覧会」は出かけるきっかけに過ぎないのだ。

エゴン・シーレ

さて。もちろん一番見たかったのは、豊田から来てるエゴン・シーレの≪カール・グリュンヴァルトの肖像≫なわけなんだけど。彼の油絵を見るのはなんと人生で2枚目。こんなに美術経験が少なくてまともな卒論が書けるのかと本当に心配になるばかり…。ウィーンに行けるお金があればなぁ。
晩年の肖像画を見ていて思うが、シーレの場合、人物が闇の中心でスポットを当てられてるんじゃなくて、黒い光(闇)によって浮かび上がってる。逆に、水彩素描などで着色されずそのままになっている背景は、光のようでありながら白い闇だと思う。あの幻想的な画風は一体何なんだろうか。以前に見たことがあったのもやはりポートレート*1だった。若さ故の成長の速さもあったのだろうけど1912年と1917年でずいぶんと変化したなぁと。それでも一貫しているシーレらしさって何なんだろうか。ゴツゴツした感じと、赤青緑で付ける陰ないしアクセントとしての筆跡は変わらない。
横のカンディンスキーピカソ見てても、その部屋にいると、なんかソワソワしてしまってシーレの作品を凝視しないではいられない。会いにいかなくてはいけない、引力を感じる。

*1:≪エーリヒ・レーデラー≫(1912年)スイス、バーゼル美術館