優しかった気持ち

人がつくったものが好きです。AKB48劇場公演。

ガイダンス

今日、大学提携型インターンシップのガイダンスがあった。午後に登校していってたまたま見た掲示でその存在を知った。院の友達が出席するというので付いて行った。
彼女はとても積極的だ。教採を蹴って院にきた。ガイダンスはしっかり把握、企業のセミナーも申し込みまくっているし、バイトも新規オープンで倍率20倍になったところを見事に採用されたらしい。志望職種は私と同じ。「おまえもいろいろやったほうがいいよ」という言葉には説得力があるし、頼りになる同輩に恵まれたものだと思う。その半面、できるやつは何やっても違うんだよなぁ…と心の奥では僻んでしまう悪い性。


インターンも就活もやったことがない。学部の頃にも就活ガイダンスとやらには出席した、話も聞いたけど、どうも自分のことと思えない。自分は典型的な現代の若者なのだと思う。大教室のステージには、インターンを終えて一皮むけた学生と、人事部から招かれた企業の方が並んで座っている。社会人になったら自分もああなるのかということはわかる。わかるけど、わかるだけ。何をすれば、何を超えれば、という段階を追えば必ず到達できるものではないと思う。
学部3年のこと。サークルの部長を務めた。その過程で”責任感”は付いてくるものだと考えていた。けど実際、何が”責任”なのかわからないで1年の任期が終わった。正直、達成感や充実感というより、解放感だった。有能な指揮者たちがいなかったら部は成り立たなかったとさえ思う。動機なんか覚えてないけど、核心に迫れば、部長という最高地位を満喫してみたかったというだけだろう。部員達には本当に申し訳ないことをした。もう二度と、長なんかやらない。


「自分は何をしたいのか」。考えた。
学芸員も出版も狭き門だ。漠然とした憧れだけで通用する世界じゃない。しかもこの文化が希薄化、デジタル化していく世の中ではどれも厳しい。けど、どうせ厳しいのなら自分がやりたいことに賭けてみるのも、悪くないんじゃないか。
学芸員になりたい?じゃない。出版に就いたところで何がしたい?何がしたい?…何もない?
誰もいなくなった院生棟。ロッカーに置いていく荷物をつっこんで、廊下の電気を落とそうとしたとき、掲示板の新聞記事のコピーが目に飛び込む。以前にも一度目を通したことのある数年前の記事。うちの院を出た方が小説作家として賞を受けたようで、短いインタビューが載っていた。…………絵とか音楽とかいろんな表現方法があるけど、私の場合は言葉でした…………


学芸員になりたい。出版に就きたい。
その理由はなんだったか。そのそもそもの動機は。

言葉を書きたい。
昔からずっと自分を変わり者だと思ってきた。好みも視点も、人のそれとは少しずれていると感じていた。それがコンプレックスだった。けど、自分にしか見えないものがあるかもしれないと考えられるようになってから、自分を好きになった。


それを思い出した。


今日のガイダンスで、インターン経験者の学生は「日々の成長が実感できるほうがよいと思う」と言っていた。
そういえば以前、ライターの方かどなたかが「大したことがなくてもかならず毎日ブログを更新する」ことを日課としていると聞いたことがある。
ブログかぁ。中2から始めて以来、ブログかmixiの日記か媒体は変わっても、本当に毎日更新していた。めっきり書かなくなったのは部長業務やら卒論やらに日々に追われるようになってから。パソコンを開くとブログ以外にも何時間もネットサーフィンをしてしまい、時間を無駄にしてしまうためだ。
けど、毎日ブログを書くことをある種のノルマと設定してしまえば、他に研究やらなんやらやることは山積みな今の自分は、さすがにきちんと切り替えができるようになるだろう。いや、そうしなきゃいけない。時間がないんだから。


長続きする気もしない←が、mixiの日記やボイスでは到底書けないような話題が、自分の脳内トピックスに挙がるような生活を、院生として営まなければいけないと危機感を覚えているのは事実である。
文章を紡ぐ、自分と向き合うという意味でも、この場を有効活用できればと思う。