とある日の僕の再生記録。
「往路の電車:羊飼いの旅、移動中の電車:羊飼いの旅、帰路の電車:羊飼いの旅、仮眠中:羊飼いの旅、食後:羊飼いの旅(MV)、就寝前:羊飼いの旅(MV)」
というくらいでもはや病レヴェルでリピートして観ていますorz
PCじゃなくプラズマテレビじゃなきゃダメだった。
画質良く観られる環境を整えねばいかんかった。
まだ気付きがたくさんある。見落としもあった。
些細なことながらやはり書くべきだなと思うことが多くあったので、追記的にいろいろメモしていこうかと思います。
前回の記事よりも、「美術史的視点」からの憶測的な解釈になるのでご理解を。
3つの空間、訂正版
前回、登場する3つの空間について、「修道院のような石畳の室内」、「廃墟の屋内」に加え、ただ「闇」と書きました。
ですがそれを訂正すると、「闇」ではなくて、「樹のある闇」すなわち「深い森」です。
亜樹、由依、里英が樹に触れ、上方から花弁が舞い落ち始める場面
3人が樹に触れている光景に、葉の舞い落ちた地面や木々のシルエットが確認できます。
その他では、
廃墟を離れた麻友が引き返して様子を見にきたように現れるシーン、
部屋で倒れた陽菜と玲奈が花びらに埋まっていくシーンで使われます。(キャプ画はのちほど)
そして一瞬挿入される、空間の示唆としての断片的なカット。
スタジオセットっぽくないほどのクローズアップ。
部分部分を小出しにすることで、抽象的な世界にみえる。
しかも土や樹、葉の質感をそのままみせているから、非現実で抽象的ながらもよりリアリティーが増しています。
空間のリンク 配置
室内に由紀が現れて椅子に座ると、廃墟には麻友が横たわる石の台が現れる。
引きの構図をみてみると、
由紀のいるテーブル = 麻友のいる石の台
テーブルに立つ2本の蝋燭 = 陽菜と玲奈
5本さしの燭台 = 十字架型の岩
というように、ひと・ものが配置された場所と形状が、室内空間と廃墟空間でリンクするように構成されています。
2番では「百合」が「白い本」に変わるから、ここでは由紀の前にある「黒い本」が「百合」とリンクするかなーと思うけど定かじゃない。
若干無理があるかと思われる方もいるとおもいますが、美術史ってわりとこんな感じですw
そして、陽菜と玲奈が倒れるシーンでは、室内、廃墟、深い森らしき場所と、3つの空間それぞれで確認できる。
そのことで、この3つの空間がすべてリンクしているのがわかる。
ちなみにこの2人が倒れる位置。
「室内」では画面からはズレているけどセット右手の燭台周辺の床。そして「廃墟」では十字架の麓。
5本と足が十字型になった燭台と、岩の十字架を重ねてみると、ここも同じような構成がされているとわかる。
もしかしたら、この“室内”がある建物の跡地が、この羊たちがいる“廃墟”なのかなと。
過去と未来というわけではなさそうだけど、同じ空間を違う次元で異なる世界として描いていると思えました。
樹木、蝋燭の灯
画面を読む学問に身を置いてから、ドラマでも映画でもアニメでも意味のないシーンはないんだなということを痛感している。
それは偶然映し込んだものではなく、監督や現場の人間が美意識をもって"作った"映像だからこそ。
由紀がいる室内を読み解くと。
まず、見比べると、時間が経って、右側から樹の影が落ちてきたのがわかる。
羊が手にした白い本のまっさらなページが、室内に舞い込むやいなや言葉を宿したのと同じように。
日本語には“言の葉”という言い方があるけど、言葉が刻まれたページの紙片と、樹木から落ちた花弁とがリンクしているのかな。
蝋燭は、テーブル上に2本の燭台、右側後方のチェスト上に5本ざしの燭台と、左側の壁にかかったランプの中にあり、火が灯っている。
チェスト横の椅子の上にもランプが置かれていますが、どうやら火は付いているようには見えない。
別のシーンでも、由紀をアップカメラが揺れながら動いて、左壁の灯りが画面に映り込むと、
その光のくらみがそのまま、廃墟の羊たちを照らし出す陽とつながっていくように編集されている。
「灯」自体が「言葉」つまり「祈り」や「想い」のようにあちらこちらに推移することで、物語は視覚的な進行を表しているのかと。
蝋燭の灯 Cメロ解剖
そのあと「室内」は、大サビ前のCメロで、陽菜と玲奈が蝋燭をもってやってくるシーンで再度登場します。
このカットがまた不自然で…。
時制がずれているにしても、「室内」の空間自体は由紀がいたところと同じはず。
なのに、テーブルあるいは椅子が置いてあるはずの位置から2人は歩いてくる。
なぜそのような不自然な配置をしたかといえば、左右後方に蝋燭を映し込みたかったからかなと。
そんなわけで、2番サビ末〜Cメロをダンスショットを抜いてみてみるとこんな流れ。
「暗い室内」にアルファベットのa〜fまでを振りました。
deからfの流れで何が違うかというと、左壁と、右はじの椅子の上の、ランプの灯り。
暗い部屋に入ってきてすぐ、アップの陽菜と玲奈の画面奥右には、低い位置に蝋燭の灯が確認できる。
aではまだ見切れて隠れているけど、bcではっきりとが灯っていることがわかる。
となると、ずっと火は灯っていたことになるだろうけれど、
由紀がいる明るい部屋ではこのランプの中だけ灯っていなかった。
“映像に映り込んでいるか否か=その世界に存在してるか否か”と考えて、
そして一区切りついたように、陽菜と玲奈が倒れたあと、fでははっきりと火が灯っている。
この“de、由紀のアップ、f”で、初めて左壁の灯りが画面から消える。
1番の麻友を覚醒させるシーンで、陽菜と玲奈の2人は「廃墟」左手の出入口から入ってやってきた。
「室内」ではその左手にあった灯りが映像に映らなくなり、燭台(「暗い部屋」では足だけが見える)の右隣にある椅子の上のランプの灯りへ見る視点が移る。
そして、「廃墟」の十字架のもとで亜樹が力強く開眼する。
今まで映っていた左壁の火は由紀のアップの一瞬ではついに映らなくなり、それに続くfのはっきりとした灯は、その次の亜樹のカットと密接に繋がる。
強い太陽の光とともにとても印象的ですが、この「灯」はまるで黒い羊飼いたちの交信が行なわれた記録のよう。
そして亜樹の跪いた足元には、倒れた陽菜と玲奈がいる。
旅は続く
2人は倒れたまま動けなくなった。
左上には樹の根が、右上には廃墟の石畳。
「深い森」とも「廃墟」とも言い切れず、さらに「廃墟」と次元的ずれをもちながら同じ空間のように表現された「室内」との関係。
このMVにおける3つの空間すべてが繋がる場所なのかもしれない。
生き絶えたはずなのに、遠ざかるカメラに向かって2人は目を開く。
いうなればフランドル絵画の美女のような独特な微笑みすらみえる。
この「暗い森」においては、2人の存在は土に還ってもなお生き続けているんだというメッセージにとれます。
そして気がついたのですが、イントロ部分。
麻友が画面右からやってきて石の台に横たわる場面。地面には赤い花弁が散っている。確かに。
でも、この直後に映る、眠る白い羊たちのいる地面には1枚も花弁は落ちていない。
ではこの麻友はどこから続いてきたのかと推測すると、この曲のラスト、大サビではないかと。
麻友が石の台前に立ってるこのカット。
彼女の姿勢、位置などから同じ映像を使ってるようですねこれ。
そのことで、“自然”のサイクルが意識される。
心の中で目覚めるものがあって、息絶えていく想いがあって、それが肥やしになって花が咲いて、それを永遠的に繰り返す。
それこそまさに、「羊飼いの旅」。
このMVを初めて何度かみた後、美しさの感動のなかでどこか物悲しさを覚えたのだけど、
それも、終わりのみえない自分への教戒的なメッセージが色濃いからなのかもしれないな。