優しかった気持ち

人がつくったものが好きです。AKB48劇場公演。

オフブロードウェイ・ミュージカル「bare」【20160702 13:30〜@新宿シアターサンモール】

行ってきました!増田さんの舞台です(*´ω`*)
シアターサンモールは初めてで、チケ番に16番とあったので下手か中央のすみかな?と思ってたのですが、最上手寄りの端の席でした。小さい劇場なんですね。ぼっちでチケット取ると、このように最極地に送りこまれることが非常に多いです()
さてさてしかし、増田さんはどうしてこうも毎度重たい舞台に出るのでしょうか…()。bareの主たるテーマはずばり「同性愛」。観た感想をつらつらしますがネタバレを大いに含みますので、これから観るなど気にされる方は閲覧注意でお願いします!


ジェイソン(岡田亮輔)、ピーター(田村良太)
アイヴィ(増田有華)、ナディア(あべみずほ)、マット(染谷洸太)
神父(川粼麻世)、シスター・シャンテル(入絵加奈子)、クレア(秋本奈緒美
ルーカス(松永一哉)、ザック(宮垣祐也)、アラン(藤井凜太郎)
ターニャ(北川理恵)、カイラ(町屋美咲)、ダイアン(日下麻彩)、ローリー(momona)

ジェイソンとピーターは密かに恋仲で、そこにジェイソンに恋するアイヴィと、アイヴィに想いを寄せているマットが絡んできます。同性愛をこんなにもストレートに物語の中心に据えた演劇を観るのは初めてでした。
有華ちゃん演じるアイヴィはジェイソンの秘密を知らずに彼に近づき夜をともにします。美しい容姿でもてるアイヴィもアイヴィで、どんな男性と関係を持っても気持ちが満たされない、深い関係を築くことができないというコンプレックスを持っていて、そんな彼女が深く愛した人というのが、皮肉にもゲイであるジェイソンなわけです。出し物の演劇として「ロミオとジュリエット」の稽古があったり、パーティーがあったり、全寮制の学園生活の中で、あちこちの人間関係が少しずつ、少しずつねじれていきます。

ラブシーンの訪れをほのめかすかのように、あからさまな下ネタが散りばめられた台本。アイヴィの衣装の露出は極めてきわどいのですが、マットと会うのでおめかしした洋服の腰のくびれも背中も美しかったですよ…整いすぎてへこんでましたよ背骨のラインが。アイヴィの誕生日パーティの後にはジェイソンとの熱い抱擁、そして前半のラストで2人は身体を重ねるわけですが、すごいですね、舞台上で服脱ぐんですね…。それも抱き合ったあの距離でものすごいエネルギー発しながらお互いの顔を見つめあって歌ってる。セクシャルなシーンだったのが、次第にものすごく生命感を帯びていってました。
多くの人に惹かれながらも真実の愛にたどりつくことができないアイヴィの孤独が切なかったです。大人になりきれないただの子どもだから、幼さ故にどうでもいいことで傷つくし。大人とも子どもとも言える、何とでも言えるからどんなことも相殺される。言ってしまえば都合のいい年頃。

でも劇中歌で誰かが言うんです、「誰も悪くない」と。
ジェイソンとピーターが惹かれ合ったことも、アイヴィがジェイソンを深く愛したことも、アイヴィへの思いが叶いそうにないマットが、ジェイソンとピーターの関係を公然と暴いてしまうことも、誰も悪くない。誰もが偏見を持ちながらも薄々気づいていて、「同性を好き」というたった1つのことを報いてもらえないことがすべての元凶。宗教という絶対的な教え、価値観の前で、たった1つの罪悪感から小さな歯車がどんどんおかしくなって、最後にはその軋轢がジェイソンに襲いかかってしまう。
2人が部屋で閉じこもって愛し合う分には、誰にも咎められない。それが外に出て人目に晒されようとすると、途端に状況は変わる。ピーターはカミングアウトを望むのですが、優等生のジェイソンは両親の期待もあり世間体をひどく気にして、ピーターとは反対に関係を隠したがります。それでも、アイヴィに詰め寄られた時に「僕はいつか君を愛せるの?」みたいな歌詞があったのも心が痛んだ。
パーティーの喧騒を抜け出したマットとピーターのシーンで、ピーターはマットに耳打ちでジェイソンとの仲を告白します。酔った勢いというやつですが、このシーンの初めにマットがピーターに渡すのがワインというのも皮肉ですね。ワインと言えば(赤ワインですが)イエスの血に例えられる有り難い飲み物ですから。
みんなの前でマットに2人の関係を暴かれた後、ジェイソンは神父さんに自分に起こったことを混乱しながらも告白するのですが、確かそのシーンで舞台中央の十字架の光が青くなっていました。青い十字架になって、その四つの隅がうずくような赤で光っていました。それまでは基本的に十字架は白く光っていたと思うので、このシーンで色がきつさを帯びたことは印象的でした。
あとつらかったのは、ピーターと母親の会話。クレアはピーターの母親で、この学校が全寮制なので、電話をするシーンがたびたび出てきました。不思議なことにクレアはまったく歌いません。電話口のピーターは歌っていても、頑なに話をします。そして、ピーターが窮地に立ってカミングアウトをする最後の電話のシーンで、初めてクレアの台詞が途中から歌に変わります。薄々気づいていた息子の性から目をそむけ続けた母親が、今はまだ平和を忘れられないと歌う。息子の世間体を立派でいさせることでしか自分の保ち方がわからない。それがクレアという人間の弱さ。それもまた「悪くない」と言えるのでしょうか。
ところで、それにしても終始歌っているミュージカルでした。とにかくひとりひとりの歌が長く、気が付けば歌っているというか、台詞の数だけ歌ってる感じ。逆に歌わないのは、口論になるシリアスなシーンと、クレアくらいだったのではないでしょうか。実際はもっと地の台詞があったと思うのですが、とにかく歌っているイメージが強く残っています。多感になって感情を謳いたくなると、ただの台詞としてあってもいいものが、音楽にのせた歌に変わるのかなと思いました。
そういえば、何かの曲でボクシングよろしくパンチの素振りをするものがあったのですが、シュッシュッて言ってる増田さん可愛かったです()一番上手側に並んでいたので、目の前でした。あと、ピーターの夢?に出てきたマリアと天使の「疲れているところを助けてあげたでしょと言われても、ロバに乗せてもらったのは2000年も前の話だ」とか「東方三博士は私たちには何も持ってきてくれなかった」とかいう小ネタは笑いましたw聖書信仰的にはタブーかもしれませんけど、やはりあのようなネタの作り方はおもしろいですね。

お芝居

物語の大きな流れの1つとなってるのは、4年生のお芝居「ロミオとジュリエット」の稽古がスタートすること。このお芝居の配役の発表からbareのストーリーが動いていく。お芝居の稽古はだれか一人欠けると成り立たなくなってしまう。ジェイソンの真実を知ったアイヴィがショックを受けて稽古に出てこないと、みんながそれに苛立ち「あなたがいないと稽古ができない」と言う。でも本当は、誰かがひとりいないくらいだったら補填できるはずなんです。現にピーターはジュリエット役の台詞をほとんど覚えていた。
"芝居の稽古にアイヴィが居ても居なくても"と同じ尺度で、"ジェイソンとピーターが付き合ってても付き合ってなくても"、"ジェイソン/ピーターがゲイでもゲイじゃなくても"、みんなそれぞれに生きていけるはずなんです。それなのに人は、相手にあるべき姿を求めてしまって、人に求められた自分を演じるという生き方を余儀なくされることがある。その一人が、ありのままの姿を隠して生きたジェイソンという人間なのではないでしょうか。
ジェイソンの命が失われて初めて、その尊さに気が付くわけです。きっとあのステージに立っていたすべての人が、自分の行いを咎めたり、何かもっとしてあげられたのではと考えたことと思います。
ジェイソンの双子の妹ナディアの歌には、毎日が「お芝居みたい」とあったと思います。私は人と話すのが下手なので、逆に台本に沿ってお芝居のようにコミュニケーションをとって生きていけたら楽だろうなーなんて思うことがありますが、お芝居のように一般常識や型にはまった生き方をした方が圧倒的に楽ですね。
お芝居とか稽古とか、かなりありきたりな設定だなーと観る前は正直思ったのですが、かなり深かった。全体に敷かれた、大きく秀逸な伏線だなと思いました。

謝罪

最後、卒業式前の、ピーターと神父さんのシーン。ジェイソンの告白を聞きながら彼を死なせてしまった神父は、ピーターに謝ります。そしてこれに対してピーターは、「許します」と言います。これまで同性愛は罪と提示してきた既成の宗教観がマイノリティを苦しめてきた(あるいは今も苦しめている)わけで、そのことに神父(宗教)が気がついて謝罪してるように聞こえました。もし同性愛を許容する風潮であれば、ジェイソンは自殺まで追い込まれなかったはずです。命を失って初めて、彼のセクシュアリティ咎め続けたことが過ちだということに気が付いたのでしょう。遅すぎるわけですが。
bareは2000年初演とのことです。物語の時代設定はまるまる現代という感じは受けませんでしたが、敬虔なカトリックの学校だからそう感じたのかもしれません。いずれにせよ一昔前のアメリカだと信じたいです。そして宗教的文化の違いこそありますが、2016年の日本における現状はこれよりも良好なものになっていると信じたいです。

ステンドグラス

bareのメインイメージになっているステンドグラスが、開演前のステージに大きく掲げられていました。光をとりいれるガラスの部分よりも、フレームの黒のほうがどぎつい印象のステンドグラス。でも、それが終演後には、ステージの上に伸びているステンドグラスの影は2つになっていました。それも、並んでいる2つが左右で色の散り方が違った。窓の光の反映ということもあってか、フレームの重たさは感じませんでした。ジェイソンの気持ちが解放されたようでしたし、その隣に誰かが寄り添って2つの窓になっているのかなとも思いました。
とても綺麗でした。でも、こうやって物語で観ている世界は綺麗に整えられていますが、現実の世界を生きている自分の近くにも同じように重たい何かを抱えてる人があるかもしれませんから、この舞台のジェイソンの死を見て、自分がどういう想いで・どういう気持ちでいるべきかを、何度でも見つめなおしていきたいです。現実世界は綺麗に取り繕われたことが多いですけど、社会の陰を暴きだすのが舞台や演劇や映画などなどのエンターテイメントであるとすれば、いつか近い将来にマイノリティのカップルがハッピーエンドを迎えられる舞台を、特別な映画祭などではなくて普通の劇場のステージで、観てみたいです。だってセクシャルマイノリティは決してトラジェディではないから。bareはその途中の一歩なんだと思いました。深い深い舞台をありがとうございました。