優しかった気持ち

人がつくったものが好きです。AKB48劇場公演。

YouTube 2020雑感

年末が近づくと雑感を書きたくなったのだが、パワーダウンしてる今なので年内に書ききれず年を越して今に至る。

コロナ禍で活動が著しい制約を受ける中、ちょうど今年に入ってから山内瑞葵ちゃんがIxRでTiktokを、山根涼羽ちゃんはnoteを始めたり…などなど、メンバーが各々SNSやサービスのアカウントを新しく作ったり投稿数を増やしたりして、ネットから元気を発信しようと頑張っている。

 

2020年の一年を振り返った時、避けては通れない存在が超大手の動画共有サービスYouTubeだった。
 
芸能人がYouTubeに活動の場を広げる傾向が強まる中、2020年1月の毎年恒例TDCコンサートシリーズで発表があり、48メンバーがこぞってチャンネルを開設した。自分の推しも現役・OGふくめユーチューブに乗り出し、動画の投稿を始めた。撮影だけでなくPCを買って自ら動画編集を勉強しているメンバーもいる。春の自粛期間中にはAKB48がOUC48(=おうち48)としてユーチューブチャンネルでの生配信をして(機能にはzoomミーティングを使用)いくつもの番組ができた。
 
私事だが、私自身の生活も一変した。テレワーク中心の生活になり在宅の時間が大半を占めるようになる中、サブスクリプションでいろんな音楽を自由に聞きたくてYoutubeプレミアムに登録した。広告無しでBGMチャンネルを何時間も聞いていられるのはとても快適。そしてお気に入りのチャンネルがいくつもできて、赤い再生ボタンのアイコンに頻繁にアクセスするようになった。ちなみにAppleMusicの登録もこの頃したんだった。GAFAの時代。
 
この記事に書きたいのはどのユーチューブチャンネルがいい/悪いという話ではない。
 
私は今までユーチューブの流行をよく思うことができていなかった。それが2020年を生きる中でちょっとずつ受け入れて、毎日楽しめるまでなった。その感想を整理するためにこのブログを書いている。 
 

「やってみた」でいいのではないか 

いきなり結論を見出しにしてしまったが、世の中の流行の中心が若者だというなら、その渦の外にいる者としてできることは「彼らが"おもしろい!好き!みんなを楽しませたい!"と思ったことを自由にやっていく様をただただ観ている」だけだと思う。
 
ただし。これはネットリテラシーの学びとも直結することだが、自分で経験してみないとわからない世界であるのは確かだと思う。たとえば炎上などしくじった経験を持つ失敗の先人から「気をつけろよ」といくら注意を受けたとしても百聞は一見にしかずで、実際に自分が痛い目に遭ってみないと身につかない類のこともあるのではと思う。
 
そしてそういう経験を経るのが多感な若い時期だとしたら、彼らは流行の只中で生きながら学習している最中ということなんじゃないだろうか。そうしたら一連の経験は不可欠だし、実際にやってみないと成功することも失敗することもできない。 

「若者」と書いてしまったけど、年齢的な問題だけでなく、インターネット上である界隈に初めて入ってきた層とも言い換えられると思う。
 

コアラさん

私がメンバー登録したユーチューバーに、あつ森などのゲーム実況で知られる「コアラ's GAME SHOW」のコアラさん(UUUM所属)がいる。
 
コアラさんは辛辣な鋭いツッコミに定評のある邪悪で誠実なクリエイターだが、そのバックボーンにはゲーム・漫画から一時期勤めたという探偵業までさまざまな経験からくる博識と考察力、物腰の柔らかさがある。キレのあるツッコミを連発する瞬発力だけでなく、ものごと一つ一つに対する思想が非常に興味深い。ただのV系ヤンキーのお兄さんではない。
 
そんな彼が以前、メンバー限定放送で仰っていた印象的な話がある。アイドルのユーチューブ参入についてのコメントを拾いながらこんなことを語った。
 
「ユーチューブ一筋でやっているユーチューバーと、イベントの司会などマルチにこなしつつ動画もアップしているユーチューバーがいるとしたら、成功しているのは後者だと俺は思っている。
『動画が何万再生されてるんです』と言っても、ユーチューブの外に出てしまったらその数字は強いパワーにはならない。それだったら例えば『(有名企業の)イベントで司会をやったことがあるんです』の方が強いと思う」
 
その例としてマスオさんを挙げていた。(自分はマスオさんをよく存じてないけど)主旨としてはこんな話だった。
芸能人がユーチューブに参入してくる前から何年もユーチューバーとして活動しているコアラさんはこんな考え方をするんだ、と大変興味深いコメントだった。
 
今までずっと、自分の推しにはユーチューブ"じゃなくて""というよりも"ステージの上でかっこいい姿を見せて欲しいと切に思ってきた。裏の顔を見たいんじゃない。ただでさえ人に見られ続けている生活をして注目が集まっているのに、さらにプライベートな部分までエンターテイメント化するなんて精神破綻しちゃうよ…という心配もあった。
 
だけど、そのコアラさんの発言には考えさせられた。そして気持ちの靄が少し晴れていったように感じた。
 

YouTubeチャンネル2種類

一言にユーチューブチャンネルといっても、コアラさんが示したように「ユーチューバーのYouTube」と「アイドル・タレントなど芸能人のYouTube」があって、その2つには決定的な違いがある。
後者にとってYouTubeは多々ある活動のうちの一つ、副業的な場合が多いということ。活動主体は別の場所にあり、ユーチューバーとして成功することがゴールにはならないはずだ。
だからいずれ芸能人のYouTubeブームには終わりが訪れると思う。
 

「やってみた」後の選択

そもそもブームと言うか、活動ツールの一つとしてYouTubeを「やってみた」という感じだと思うから、自分の活動に合わなければ「やめる」という選択肢をとる人が出てくると思う。「やめる」まで行かなくても、活動の中心がまた変わっていって「休止」になるかもしれない。
「飽きた」だって怠慢などネガティブな意味では決してない。むしろ自分がキャパオーバーだったり、自分のやりたいことにフィットしていなかったりで「本能が警鐘を鳴らしている」と捉えることができる。その「やめる」選択は逃げでもなんでもなく、その人が自分の仕事をまっとうする上で当然のことだと思う。
 
インターネットにはサービスが飽和している。自分が生きていく場を絞っていかないとやりきれなくなってしまう。
そして、どの場で生きていくかを選択する行動として「やってみる」「成功する/失敗する」「続ける/やめる」は万人に必要なプロセスだと思う。
 
全世界に通じるユーチューブなどのウェブサービスは、そもそものユーザーの母数が膨大なので瞬く間に大拡散・大流行する。そして瞬く間に廃れる。「やってみる」の必要プロセスを踏んでいるだけでも、その世界ではプロがクリエイトした動画も、素人が回したハンディカメラの映像も全てが等しく可視化される。
見るものの琴線に触れた都合のいいものが拡散される。それが今のインターネットなんじゃないかと感じる。 アンディ・ウォーホルが説いた「誰もが15分は有名人になれる時代」は今、とうに飛び越えてしまった。
 
なので、YouTubeを推しが始めたとしてもそのうちやめるという選択も大いにあるなぁと思っている。だから、やりたいことをやってみたでいいんだと思う。「あなたがやりたいと思うことを好きなようにやってください」と推しを応援してきたのはヲタクだし。それにユーチューブでの活動を続けていったとしても、彼女たちの活動の軸はぶれることないだろうと信じている。だって、その軸があるから私の"推し"なんだもの。
  

幻滅についてのどうでもいい話

Youtube雑感を書いているうちに、気づいたら「ヲタクって何だろう」を考えるはめになっていた。そしてヲタクとしてのスタンスを考えて記事を書いているうちに、ジョルジュ・ローデンバックの小説『死都ブリュージュ』の顛末を思い出したので書いておく。

 
岩波文庫で絶版になってるしネタバレしても問題ないと思うので記憶の限りであらすじを書くと、「最愛の妻を若くして亡くした主人公男性が、街で亡き妻そっくりの女性を見かけて一目惚れする。彼女は劇場で踊り子をしている清楚な娘で、男はすっかり惚れ込んで通い詰めてアプローチするわけだが、家に招き入れるまでの関係になると実は礼儀のない下品な娘であることがわかって失望し、しまいには妻の大切な遺品で遊びだすのでぶちキレて殺してしまう」という具合。いかにも退廃的な世紀末趣味の物語である。間違っていたらごめん。
 
読後は、どんなけ自分勝手な話だよと思った。思ったが、殺めるまではもちろんいかないにしても同じような幻滅の経験は多くの人にあるんじゃなかろうか。
 

推しに「幻滅」する経験

「幻滅」というと聞こえが悪いのだが、実際私は握手会で「幻滅」したことがある。それはがっかりして嫌いになったという辞書的な意味ではなくて、「私が頭の中に思い描いていた推しと現実の推しが異なる色だと気づいた」つまり「私の頭の中にいる推しの幻が滅した」経験を指す。
 
その幻滅経験は、自分と推しの距離感を認識するために重要なんじゃないかと思う。特に私のような没頭しがち干渉しがちなガチ恋に関しては。あなたにはこういう部分もあるのね、と気持ちを整理するうえで便利な経験ではある。「知らなくていい」という状態を保つのが難しい現代ではなおさら、そう思っておくしかないとも思う。
 

好きは好き、面白いものは面白い、つまらないものはつまらない

YouTubeに参入していく推しの活動はそれだけ多岐にわたっているのだし、応援するヲタク側もまた「推しのすべてを追う」というメジャーな姿勢を見直す時に来ているんじゃないかと思う。
 
だからどんなに好きな推しでも、見たいものだけ観る。好きなものは好きだし、面白いものは面白いから見る。でもつまらないものはつまらないという感情でいいし、納得いかなければ見ない、支払わない(払って支えない)選択をすればいい。自分が支えていなくたって、ほかの大勢の誰かがどこかで支えてくれている。それでいいんだな…と思えたのが2020年だった。
 
動画の最後で誰もが口にする「チャンネル登録、高評価、コメント」の数字なんて業務上でしか役に立たないと思っている。個人的な体験としてこの2年でそう実感することがとても多かった。例えフォローもRTもいいねもされずにその数字が伸びなくても、見てくださる方は見てくださっているし、見てる奴は見てる。何人に見られているかよりも、誰に見られているかのほうが重要。どんなに数字が小さい人だって良い(もしくは悪い)ポストをすればそこに注目が集まる。そういうふうに構築されている、この世界は。
 
だから、推しのすべてを好きでいようとヲタク一人が無理する必要はない。多岐にわたる活動をしているメンバーほど多方面にファンがついているのだから。自分を大切にして推しごとしましょ、治安よく。 
 
 
 
と、少なくとも自分には言い聞かせることにしました。
「そんなことずっと前から思ってるわ」って人も多くあるでしょうけど、私はこうして書いて文字にしないと腑に落とせないところがあるので、当たり前レベルのことでもこうして書きますよ。
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